天皇裕仁は象徴失格!<本澤二郎の「日本の風景」(3222)
<本心を全く知らなかった本土ジャーナリストと国民>
ネットの効用であろう。昭和天皇を裕仁と記述したブログなのかURLというのか、それがNHKが特ダネと称して垂れ流した初代宮内庁長官の拝謁記なる裕仁発言の本心を、沖縄の新聞がスクープしていた。

 歴史を学ぶ機会を排除されてきた多数の国民にとって、それは衝撃的な裕仁証言に頭をぶん殴られた格好である。NHKは拝謁記をすべて公開すべきである。その真実を本土の新聞テレビは、はっきりと報道する責任・義務がある。

 ひょっとして、皇位継承費166億円で真実に蓋をかけてしまったのか。筆者に言わせると、それは沖縄・広島・長崎も敗戦処理のもとでは、正当化されると裕仁が打ち明けていたことになろう。一部の歴史学者は知っていた。いま沖縄の人々は、地元の新聞報道で学んだことになる。昭和天皇は、文句なしに象徴失格者だったことになる。

<例の拝謁記でも誤報を垂れ流した本土の新聞テレビ>
 悲しい史実がまた増えてしまった。日本の危うさは、敗戦後からだったことになる。その点で、吉田茂首相(当時)が独立時に、裕仁が「反省の文言を入れたい」という要請を排除したことは正しかった。裕仁にその資格などなかったのだ。

 ましてや再軍備のために改憲をしたい、といいだすあたりは、もはや300万人の命と数千万人の大陸の死傷者に申し開きなど立つわけがない。史上最大の暴君を裏付けて余りあろう。

 まともな日本人であれば、誰もが腹が立つどころではない。自ら自害したヒトラーの方が、ましではないのか。

 せめて歴史を直視した三笠宮と交代するのが、国民とアジアの人々に対する責任の取り方であったろうと思うと、天皇家への尊敬の念は消え失せる。

 それにしても、歴史の真実を手にしたNHKのぞんざいすぎる報道姿勢に、改めて怒りを覚えてしまう。18冊のメモを抱え込んで、真実に蓋をする行為は、売国的犯罪であることを強く指摘しておきたい。国民の総意である。世は21世紀、戦後74年ではないか。

<沖縄の新聞だけが真実を報道>
https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/b90ed0ea32311e9a383b90a915c43cb3
 日本国民もアジア諸国民も、このブログを開くか、沖縄の新聞を見つけ出して、裕仁の本心を知るべきである。

 沖縄に常駐して去ろうとしない、米帝そのものと断罪したい海兵隊と米軍基地を「裕仁が米国に約束した」という風聞は知っていたが、まさか本人が側近に記録させていた!これは驚きである。

 むろん、裕仁が約束したとしても、憲法が許さない。天皇もまた、憲法順守の義務を負っている。国民とは無縁であるが、改めてその証拠が出たことについて、今日まで象徴天皇に無関心を装ってきたことが、それ自体、ジャーナリスト失格であったことになり、ひたすら猛省するほかない。

 沖縄の新聞テレビに感謝したい。同時に、先の参院選で池田親衛隊を代表して、信濃町の東京から出馬した野原善正が善戦したことの原因も見て取れる。安倍一強の柱である信濃町を揺るがす大健闘である。創価学会を真っ二つにした親衛隊が、改憲軍拡の財閥と神社本庁の日本会議の傀儡政権を駆逐する唯一の手段なのだ。
 山本太郎の慧眼にも敬意を表したい。歴史の真実は、日韓対立によっても表面化している。東アジアに変革の嵐が吹きまくっている。

<近現代史を学ぶことが日本の前途を切り開く大道>
 海部俊樹は、立派な首相といえる。理由は、シンガポールで講演、そこで「これから日本も近現代史を教えていく」と世界に発信した。この姿勢は、間違いなく正しい。だが、文部省は聞かなかった。昨今の若者の右傾化の根源である。

 問題は、日本の戦後の文部省(現文科省)の教育だった。それは、まるっきり児童生徒に近現代史を、教師たる者が教えなかった。裕仁の悪しき所業を、徹底して隠ぺいしてきたのである。それも日韓対立の遠因となっている。非は日本の教育である。安倍である。

 何も知らないで大人になった小泉純一郎は、靖国参拝に精を出したのだが、筆者は背後の日本会議のことに気づかなかった。安倍晋三も同様である。この二人の清和会議員の先輩が、五輪を牛耳る森喜朗で、彼は「日本は天皇中心の神の国」とほざいて失脚した。小泉も安倍も森の配下である。

<若者よ聞け!無知は犯罪なり>
 知らないでは、人生を幸福に送ることなど出来ない。無知でなければ、例えば、安倍の実弟のように、息子の医療事故を事前に回避できた。無能無責任な東芝病院に搬送することなど、無知でなければしなかった。また、妻の風邪と肺腺癌を区別できた。命をすべて医師に任せることの危険は、この世に充満しているのである。

 教養・知識がないと、役人に翻弄され、生活に困難をきたすことになる。せめて日本国憲法を学ぼう。大学の教壇に6年立ってみて、つくづく実感させられた。

 無知は犯罪なり、沖縄を学ぼう。創価学会の会員も、沖縄の野原から正義と勇気を学ぼう。偉そうにふるまっている、自ら識者と勘違いしている御仁にも、この言葉は当てはまるだろう。
2019年9月2日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)

「拝謁記」で本土メディアが無視した裕仁の本音

2019年08月22日 | 沖縄と天皇制




前回のブログで、NHKは「拝謁記」を全文公開すべきだと書きましたが、19日、NHKはその一部だけを報道各社に公開し、各社はそれを大きく報じました。
 同じ情報源(公開された「拝謁記」の一部)でも、扱うメディアの視点によって紙面は大きく異なることを改めて痛感しました。
 21日付の本土各紙(放送も同様)は、「(戦争)反省といふ字を入れねば」という裕仁の発言を大きく見出しにとりました。しかし、沖縄の琉球新報は違いました。沖縄タイムスも翌21日付で新報に続きました。両紙が1面トップで大きく報じた裕仁の発言は、「一部の犠牲やむを得ぬ」です。
 琉球新報、沖縄タイムスが注目したのは「拝謁記」の次の個所でした。
 「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為二之がいいと分かれば一部の犠牲は巳(や)むを得ぬと考える事」「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(1953年11月24日の発言)
 琉球新報は「一部の犠牲やむ得ぬ 昭和天皇 米軍基地で言及 53年、反対運動批判も」の見出しで、リードにこう書きました。
 「昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の『天皇メッセージと同じ路線だ』と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について『反省していたかは疑問だ』と述べた」
 朝日新聞、毎日新聞は記事中でも「拝謁記要旨」でも、この部分には触れていません。同じ共同通信を使っても中国新聞などは「要旨」の中で一部だけ載せていますが、記事にはしていません。同じネタ(裕仁の発言)であるにもかかわらず本土メディアと沖縄県紙で際立った違いが表れました。これはいったい何を意味しているでしょうか。
 米軍基地によって生じる「やむを得ぬ」「犠牲」を被る「一部」とはどこか。基地が集中している沖縄であることは明らかです。裕仁はそれを「沖縄の」とは言わず「一部の」と言ったのです。これが沖縄に「犠牲」を押し付ける発言であることは、沖縄のメディア、沖縄の人々にとっては鋭い痛みを伴って直感されます。だから琉球新報も沖縄タイムスも1面トップで大きく報じました。ところが本土紙(読売、産経は論外)はそれをスルーしました。裕仁の発言の意味が分からなかったのか、分かっていて無視したのか。いずれにしても、ここに沖縄の基地問題・沖縄差別に対する本土(メディア、市民)の鈍感性・差別性が象徴的に表れていると言えるのではないでしょうか。
 裕仁の「沖縄(天皇)メッセージ」(1947年9月)を世に知らしめた進藤栄一筑波大名誉教授はこう指摘しています。
 「『天皇メッセージ』は、天皇が進んで沖縄を米国に差し出す内容だった。『一部の犠牲はやむを得ない』という天皇の言葉にも表れているように、戦前から続く“捨て石”の発想は変わっていない」(20日付琉球新報)
 沖縄戦研究の第一人者・石原昌家沖縄国際大名誉教授は、「一部の犠牲」発言とともに裕仁が米軍基地反対運動に否定的な発言をしていることに着目し、こう述べています。
 「現在の米軍への思いやり予算や名護市辺野古の新基地建設の問題での政府の姿勢は、昭和天皇のこうした発言の意を酌んでいるかのようで、現在にもつながっている」(21日付沖縄タイムス)
 「拝謁記」には、戦争責任を回避する裕仁の弁解発言が多く含まれていますが、同時に裕仁の本音、実態も少なからず表れています(だからこそ全文を公開する必要があります)。「一部の犠牲」発言は、「本土防衛」(さらに言えば「国体」=天皇制護持)のために沖縄を犠牲にすることをなんとも思わない裕仁の本音・実像がかはっきり表れています。
 それを指摘するメディアが、犠牲の当事者である沖縄の県紙だけだというところに、今日の、いや戦前から一貫している日本のメディア・言論界の思考停止・体制順応・天皇タブーが如実に表れているのではないでしょうか。


「拝謁記」にあったのは「昭和天皇の反省」じゃない 戦争責任回避、侵略への無自覚、改憲再軍備主張、沖縄切り捨て…

2019.08.24 Litera

https://lite-ra.com/2019/08/post-4921.html

NHK NEWS WEB「昭和天皇『拝謁記』戦争への悔恨」より

昭和天皇の「肉声」を伝える新史料が話題となっている。アジア・太平洋戦争での敗戦後、初代宮内庁長官・田島道治が昭和天皇との面会の際のやり取りを記録した「拝謁記」だ。

長年、田島の遺族の間で極秘に保管されていたものをNHKが入手、『NHKスペシャル』でスクープしたのだが、そのNHKと新聞各紙が、拝謁記の内容としてこぞって大きく取り上げているのが、昭和天皇が戦争への反省を表明しようとしていたというくだりだ。

1952年5月3日のサンフランシスコ講和条約発効を祝う式典での「おことば」を巡って、田島長官に「ともすると昔の軍にかえる様な気持をもつとも思えるから、私は例の声明メッセージには反省するという文句は入れたほうがよいと思う」「私は反省というのは私にも沢山あるといえばある」と、繰り返し戦争への反省を自らの口で語りたいとの希望を伝えていた(引用者の判断で旧字体等を改め句読点を付した。以下同)。

しかし、田島が天皇からの聞き取りをもとに草案を作ったところ、時の首相・吉田茂から、「反省」の一節全体を削除するよう要請されたのだという。

周知のように、昭和天皇は公の場で自らの戦争責任について一切言及してこなかった。1975年の昭和天皇訪米後の記者会見(10月31日)で、ロンドン・タイムズの日本人記者から「戦争責任について、どのようにお考えになっておられるか」と予定にない質問を受けたときも、昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」とはぐらかした。

昭和天皇が側近らに「戦争への悔恨」を度々口にしていたということはこれまでの研究でも明らかになっていたが、いま、マスコミは拝謁記報道でわざとらしく「やはり昭和天皇は戦争責任を感じていた」「反省の意を国民に表そうとしていた」と驚いて見せているのだ。

だが、この拝謁記で明らかになった事実は、そこまで評価すべき話なのだろうか。そもそも、声明に「反省の意」を込めようとして削除されたというが、天皇の意向を踏まえて田島が作成し、吉田茂から削除を要請されたくだりは以下のようなものだ。

〈勢の赴くところ兵を列強と交へて破れ、人命を失い、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡に顧みて悔恨悲痛、寝食為めに安からぬものがあります〉

ようするに、列強に無謀な戦いを挑んで、敗戦し、自国の国民の命と領土を失ったことに悔恨の念を述べているだけで、アジア諸国への侵略や虐殺への加害責任、反省を述べているわけではない。

そして、吉田茂からの削除要請に対して、昭和天皇は当初、「私はそこで反省を皆がしなければならぬと思う」と抵抗していたものの、田島から「国政の重大事 政府の意思尊重の要」「祝典の祝辞に余り過去の暗い面は避けたし」「遺憾の意表明 即ち退位論に直結するの恐れ」という3点を説得された結果、「長官がいろいろそうやって考えた末だからそれでよろしい」「いや、大局から見て私はこの方がよいと思う」と、削除を了承しているのだ。

宮内庁内部で削除を進言されていた天皇の「事志と違い」という戦争責任回避の言葉

しかも、「拝謁記」によれば、昭和天皇は戦争責任を背負うどころか、自らの責任を否定するような発言もしていた。

実は草案の作成過程では、吉田茂に見せる前に、宮内庁に反対された箇所があった。それは「事志と違い」、つまり、開戦が「私の意志ではなかった」という天皇のエクスキューズの文言だった。

報じられている拝謁記の内容からは、これが天皇の強い希望で入れられたものであることがわかる。それは、田島がその削除を昭和天皇に進言した際のことだ。田島が宮内庁内部の意見として「何か感じがよくないとの事であります」と説明すると、昭和天皇は、「どうして感じがよくないだろう。私は『豈、朕が志ならんや』といふことを特に入れて貰ったのだし、それをいってどこが悪いのだろう」「私はあの時東條にハッキリ、米英両国と袂を分かつということは実に忍びないといったのだから」と抗弁。開戦が自分の本意ではなかったこと、開戦の詔勅にも「豈、朕が志ならんや」という文言を入れさせたことなどを強調していた。

拝謁記には、これに対して、田島が「陛下が『豈、朕が志ならんや』と仰せになりましても結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたこと故、表面的には陛下によって戦が宣せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければよいではないかという理屈になります」と諌めたことも記録されている。

他にも、拝謁記には、昭和天皇の責任転嫁や保身としか思えないような発言が出てくる。
「私の届かぬところであるが、軍も政府も国民もすべて下克上とか軍分の専横を見逃すとか、皆反省すればわるいところがあるから」
「東条内閣の時は既に病が進んで最早どうする事も出来ぬという事になっていた」
「事の実際としては下克上でとても出来るものではなかった」

天皇の開戦の責任、そして、無条件降伏の決断を引き延ばした責任

改めて指摘しておくが、昭和天皇がいくら戦争は本意ではなかったと主張しても、その責任を免れることはできない。戦後、保守派は「天皇は戦争を避けたがっていたが、軍部が暴走した」などというロジックで、天皇の戦争責任を回避しようとしてきたが、これは戦中日本の加害性を矮小化するためのまやかしにすぎない。

なぜなら、天皇は大日本帝国憲法において〈国の元首にして、統治権を総覧〉し〈陸海軍を統帥〉する存在であり、最終的に天皇の承認なしには開戦も終戦もできなかったからだ。実際、対米英戦争は1941年12月8日の昭和天皇による「米国及び英国に対する宣戦の詔書」で始まり、1945年8月15日の「大東亜戦争終結の詔書」で終わっている。

天皇を擁護する人たちは、昭和天皇が立憲君主制に則って、ただ天皇を輔弼する内閣の決定を追認しただけのように言うが、その追認こそが問題なのだ。しかも、天皇は内奏を通じ、政策決定の過程に自らの主体的な意見を反映させることができた。関東軍による張作霖爆殺事件に激怒し、田中義一首相に辞任を勧告した(田中内閣の総辞職)ことは、国政における天皇の影響力発揮の最たる例だろう。しかし、開戦時も戦争中も、そうした大権を行使することなく、戦争遂行を「追認」したのである。

また、巷間では昭和天皇の“超立憲主義的行為”のうち無条件降伏の決断(いわゆる「聖断」)ばかりが着目されがちだが、その「聖断」を引き延ばしたことによって、本土空襲の激化や広島・長崎への原爆投下など大被害を招いたことも忘れてはならない。

1945年2月、すでに敗戦濃厚のなか、時の首相近衛文麿は昭和天皇に早期の講和実現を訴えた(近衛上奏文)。が、その進言を昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい」として否定した。局地的であれ戦闘に勝利をおさめることで、皇統維持などの「条件付き講和」へ持っていこうという「一撃講和論」であり、同年の無謀な沖縄戦はその結果として行われたと言っていい。「無条件やむを得ず」の早期講和論へようやく舵を切ったのは5?6月頃とみられている。要するに、どこをどうとっても、天皇の戦争責任は明らかなのだ。

しかし、昭和天皇は在位中、こうした戦争責任を公の場で認めることはなかった。そして、今回、明らかになった拝謁記のなかでも、天皇はけっして自らの戦争責任を認めてはいない。

それどころか、逆に、戦争は自分の本意ではなかったことを強調し、止めることができなかったのは、東條英機や軍部が暴走し、どうすることもできなかったのだと繰り返し弁明している。

マスコミは今回の拝謁記報道で「天皇が戦争の反省にこだわったことがうかがえる」と評していたが、その戦争への言及を見ると、昭和天皇が本当に「反省」していたとはとても思えない。

改憲「侵略者がある以上軍隊はやむを得ず」沖縄米軍基地も「犠牲はやむを得ぬ」

 その印象は拝謁記の戦後体制をめぐる天皇の発言を知ると、ますます強くなる。拝謁記には、天皇が日本国憲法に不満を抱いている発言がいくつも出てくる。サンフランシスコ講和条約祝賀式典での「おことば」をめぐって、「憲法の総ての条項に賛成ととれぬように書いて貰はないと困る。それかといって憲法自体わるいという事ではないから」と注文をつけていたことが記録されている上、以下のような改憲による再軍備も主張していた。
「私は憲法改正に便乗して、外のいろいろの事が出ると思って否定的に考えていたが、今となっては他の改正は一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいい様に思う」
「軍備といっても国として独立する以上必要である。軍閥がわるいのだ。それをアメリカは何でも軍人は全部軍閥だという様な考えで ああいう憲法を作らせるようにするし」

そして、1951年3月には「侵略者のない世の中になれば武備は入らぬが、侵略者が人間社会にある以上、軍隊は不得已(やむをえず)必要だといふ事は残念ながら道理がある」と発言し、田島から「その通りでありまするが憲法の手前そんな事はいえませぬし、最近の戦争で日本が侵略者といわれた計りの事ではあり、それは禁句であります」と諌められている。

これは、天皇には戦後も相変わらず自分たちが「侵略」をはたらいていたという意識が希薄だったことの表れ、というしかない。

さらに決定的なのは、沖縄米軍基地について語った発言だ。「拝謁記」によれば、サンフランシスコ講和条約発効後の1953年11月24日、昭和天皇は田島に対し、こう述べている。
「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一応もっともと思う理由もあろうが、全体の為に之がいいと分れば一部の犠牲はやむを得ぬと考える事、その代りは一部の犠牲となる人には全体から補償するという事にしなければ国として存立して行く以上やりようない話」

戦前・戦中は本土を守るための捨て石にされ、本土の「主権」が回復してもなお、米軍の占領下に置かれる沖縄を「一部の犠牲はやむを得ぬ」と斬って捨てる昭和天皇。ここからわかるのは、結局、昭和天皇は戦前と何も変わっていないということだろう。

そこにあるのは、「豈、朕が志ならんや」と言いながら開戦の詔勅に署名をしたのと同じ、「やむを得ぬ」と大勢に従い、現状を追認し続けている姿だ。

作家の保阪正康は昭和天皇の行動原理について、〈よく、天皇は平和主義者か好戦主義者か、といった質問が発せられるが、それは質問自体が間違っている。天皇はそのどちらでもなく、皇統を守ることが第一の責務であり、戦争か平和かというのはそのための「手段」と考えていたのである〉(『昭和史のかたち』岩波書店)と書いていたが、これは正しい分析と言えるだろう。

戦争責任を問わなかったことが歴史修正主義と戦前回帰思想を温存させた

昭和天皇はおそらく、大元帥だった戦前・戦中も、自らが開戦に詔勅をあたえた戦争で日本国民に未曾有の戦渦をもたらし、他国に多大なる被害を与えた後も、変わらず「万世一系の皇統の存続」を最大目的として行動し続けてきた。

「戦争への反省」の意を表そうとしたのも、その「反省」削除に応じたのも、当時、国内にあった退位論を抑えるためだったと思われるし、「改憲による軍隊保持の希望」も「沖縄の米軍基地容認」も共産勢力の日本進出で皇統が保障されない事態を恐れていたからこそのものだろう(実際、拝謁記からも共産主義への強い警戒心が見て取れる)。

そう考えると、昭和天皇個人に「反省」を期待することも自体が、そもそも無意味なのだ。

それよりも、私たちが考えなければならないのは、私たち自身の姿勢のことだろう。日本国民は天皇が戦争責任を自ら表明するか否かに関わらず、自分たちの手で、天皇の戦争責任を検証し、追及すべきだったのだ。しかし、国民もメディアもそのことから逃げたばかりか、一緒に自分たちの戦争責任にも蓋をしてしまった。

その結果、安倍首相の祖父である岸信介をはじめ戦争に加担した政治家がなし崩し的に復権し、戦前回帰を目指し、大日本帝国と戦争を肯定する思想が温存されたのだ。

もし、あの時にきちんと天皇の戦争責任を検証し、自分たちの戦争責任に向き合っていたら、1990年代の歴史修正主義の台頭や安倍政権の露骨な戦前回帰を許すことはなかったはずだ。

昭和史と天皇制研究で知られる吉田裕は、日本の戦争責任に対する姿勢を「ダブル・スタンダード」と評して、こう分析している。

〈具体的に言えば、対外的には講和条約の第一一条で東京裁判の判決を受諾するという形で最小限の戦争責任を国家として認める、しかし、国内的には、日本の戦争責任を事実上、否定する、あるいはこの問題を棚上げにする、という形での対外的対応と国内的な処理の仕方とを使いわけるようなやり方である。

当然のことながら、このようなダブル・スタンダードの成立は、日本人の戦争観や戦争責任観のあり方をも大きく規定することになった。一つには、国内的に戦争責任の問題が不問に付されたことの結果として、日本国家と日本人の対外的な戦争責任・加害責任の問題が曖昧にされただけではなく、国家あるいは国家指導者の自国民に対する責任の問題まで、事実上、封印されてしまったことである。〉(『現代歴史学と戦争責任』青木書店)

しかし、今からでも遅くはない。戦争をめぐる天皇の「肉声」が明らかになったこの機会に、「天皇の言葉」に頼るのでなく、国民が自分たちの手で戦争責任の問題を検証し、追及する作業を開始すべきではないのか。

(エンジョウトオル)

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昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 3 月 07 日 16:57:48: 3bF/xW6Ehzs4I
(回答先: 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 投稿者 中川隆 日時 2010 年 2 月 27 日 22:54:18)


昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。
「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。
ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。
ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」
「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。
 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。
終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。
 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。
戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。
 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。
大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。
ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。
だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。
佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。
東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。
これは当時としては真実である。
しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。
責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。
それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。
キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。
みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

昭和天皇が戦争狂になった背景
 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。
だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。
皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。
すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」
 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。
天皇は昭和の大戦争に深く関与した。 いかにユダヤ金融資本から仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。
天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。
 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。
 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。
慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。
 そこを出た財界のトップたちは、 2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。
 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。
だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。
 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。
 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。
 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 
 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」
 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。
このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。
 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。
中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。
 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」
 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。
だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。
 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」
 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。
 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。
 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。
 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。
 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、
わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。
彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。
何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。
戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。
 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0

天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。
1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。
その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。
裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。
戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。
そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。
その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm
私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。
彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。
1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。 また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。 また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、 ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。
終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。
彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。
私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。
彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

天皇家は世界一の大資本家であった
次の表をご覧ください。

【御資財本現在高】
慶応3年 102268万円
明治8年度始 510572円
明治9年度始 583519円
明治10年度始 805982円
明治11年度始 1072663円
明治12年度始 1085423円
明治13年度始 1218385円
明治14年度始 1320173円
明治15年度始 1442345円
明治16年度始 1710182円
明治17年度始 1927665円
明治17年度末 4374935円
(日銀・正金株編入)
明治18年度末 4505967円
明治年19度末 5157230円
明治年20度末 7885841円
(日本郵船株編入)
明治年21度末 9189268円
明治年22度末 9747517円
天皇家は封建時代の末期、慶応三年全資産の現金評価金額がわずか10万2268円でした。
この頃天皇家では、出入りの豆腐屋さんに「今日の支払いはちょっと待って下さい」と言ったことがあるほど貧乏していたという話が、京都には伝わっています。
ところが明治になって、日本が資本主義的発展を始めてからは、表にみられるように、鰻登りに資産が増え続けています。最初の頃は、当時の権力者、伊藤博文たちが、天皇に力をつけて、その力を利用して、日本を資本主義的に発展させようと考え、『金は力なり』と言って、明治維新のときに地方の大名から取り上げた、国の資産を次々に天皇家の資産にした結果のようです。それも憲法が制定され、国会が開設されてからでは、やりにくくなるからと、国会開設以前に駆け込むように行なっています。
そして日本が、アジアに侵略を開始してからは、雪だるま式に資産を増やして、経済学者の報告では、1917年ロシア革命でロシアの皇帝が倒されてからは、天皇が世界一の大富豪になったとのことです。

明治天皇は日清戦争に勝って、賠償金から二千万円を手に入れたこと。そして植民地にした台湾の最大の産業、台湾製糖の第二位の株主になって、20年後には100%の配当を手に入れていたことは前にお伝えしました。二度目の侵略戦争の日露戦争後植民地にした朝鮮に、植民地支配の動脈のように施設した、京釜鉄道の上位株主は次のとおりです。

【京釜鉄道上位株主(1903年2月現在)】
氏名 持ち株数 備考
日本皇室 5000
朝鮮皇室 2000
岩崎久弥 1000 三菱財閥
三井高保 1000 三井財閥
渋沢栄一 1000 第一銀行
大和田荘一 1000 大和田銀行
朝鮮皇室 1000
住友吉左衛門 864 住友財閥
阿部くに 509 明治生命
阿部長蔵 500 子爵
また天皇が保有していた主な株は次のとおりです。
【天皇家の保有株数(1905年)】
会社名 株数
日本銀行 65650
日本興行銀行 5000
横浜正金銀行 60400
北海道拓殖銀行 67
日本鉄道 27422
北海道鉄道 1000
岩越鉄道 2000
京都鉄道 3000
京釜鉄道 5000
北海道炭鉱鉄道 27690
日本汽船 80550
湘南汽船 4400
帝国ホテル 4400
合計 286329
【天皇家の保有株数(1942年)】
会社名 株数
日本銀行 211528
日本興行銀行 22725
横浜正金銀行 224912
北海道拓殖銀行 3000
日本勧業銀行 12750
第十五銀行 3055
第一銀行 5000
三井銀行 4500
三菱銀行 4500
住友銀行 3000
三菱信託 5000
北海道炭鉱鉄道 159776
日本汽船 161000
大阪商船 12825
台湾銀行 15132
朝鮮銀行 2600
南満州鉄道 37500
東洋拓殖 50000
台湾製糖 39600
東京電気 23842
東京瓦斯 62068
帝国ホテル 14700
合計 993103

天皇が大量の株を保有していた企業は、ほとんど日本が行なう侵略戦争に関わっている企業や戦争の結果獲得した植民地支配関連企業です。
つまり天皇は、日本が侵略戦争をして、植民地を拡大すれば着実に巨大な利益が得られる仕組みになっていました。
その挙句の果てが次に紹介する、1945年日本敗戦時に米軍が調査して発表した数字です。日本の国土面積の10%を天皇家が所有していました。経済学者の試算によると天皇家の全財産の現金評価額は、当時のお金で660億円だったそうです。

【1945年当時の皇室財産資産】
種別 数量 評価額 備考
土地 1352210町歩 362293953円 平均1反歩26円70銭に当たる
木材 561519千石 592865000円 1石につき約1円に当たる
建物 約150000坪 299296657円 坪当たり約2000円
現金    24788387円   
有価証券   311871503円 購入及び出資金額による
合計    1590615599円   
天皇家の資産は、戦後、GHQによって財産税33億4268万円が課税され、そのほとんどは物納されたそうです。 その後、天皇家に残された金融資産は1500万円。この1500万円が、昭和天皇が亡くなった時には、20億円にも膨らんでいました。
天皇家に経済顧問として投資のアドバイスをしていたのは、元経団連会長の石坂泰三氏や元三菱銀行頭取の加藤武男氏、元日銀総裁の森永貞一氏だったそうです。
http://74.125.153.132/search?q=cache:Xaua2RwYB8oJ:www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-5-3.html+%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E8%B2%A1%E7%94%A3&cd=79&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

動産・不動産からなる皇室財産は、明治維新以後に設定された。明治政府は皇室の経済的基礎を確立する必要に迫られ、1884年から90年にかけて莫大な皇室財産が蓄積された。つまり、政府所有の日本銀行、横浜正金銀行、日本郵船会社株の皇室財産への編入、佐渡、生野の両鉱山の皇室への移譲、350万町歩の山林原野の皇室財産編入などが行われた。
日清戦争で獲得した償金約3億円のうち2000万円が皇室会計に繰り入れられた。また皇室費は、日露戦争後、450万円に増額され、第二次世界大戦終戦時まで毎年支出された。
戦前の莫大な皇室財産は、第二次大戦後、連合国最高司令官総司令部(GHQ)によって解体された。終戦時の皇室財産総額は、総司令部発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。この結果、約33億円が徴収され、残りは国に帰属した。こうして戦後は、皇室財産は国有化され、皇室費用は予算に計上されて国会に統制された。47年公布の皇室経済法は、皇室費用を宮廷費(儀式などの費用)、内廷費(日常費用)、皇族費(品位保持の費用)に区分し、さらに皇室の蓄財や特定者との経済的結合を防止している。ちなみに、93年度における皇室費は約48億円である。
維新政権は、地租改正と殖産興業政策を実施して国家主導の資本主義化を強行することによってその経済的基盤を形成しようとした。
そこでは、農民、中小商人層による下からの資本主義の成長を抑圧し、税収奪をもとに軍事機構中心の国家資本を育成し、維新政権に依存してきた政商を産業資本へと転化させた。
 こうして、国民の金が 皇室に集まる仕組みが出来上がってきた。
それと同時に軍人勅語・教育勅語等が準備されて行った。
1900年代に確立をみた近代天皇制国家は、政商から発展した財閥資本の階級的利害を代表し、地主や地方企業家の支配による地域共同体的秩序を社会的基盤とする資本主義国家であった。
http://zenkyoto68.tripod.com/gunkakusyotyoku01.htm
昭和天皇はアジアへの侵略が深まれば深まるほど儲かる銀行や会社の大株主だったのである。
 
大正、昭和にその1千万弱の資産が終戦時37億円に膨れ上がっていた。
国体とは実はこのゼニであった。
戦場で散って行く若者たちを盾にして支配層が守ろうとしたものはこの「神聖財閥」を頂点とするゼニの塊だったのである。
終戦時の皇室財産総額は、総司令部発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。
1887年に横浜正金銀行条例が制定され、特殊銀行として外国為替銀行となった。その後日露戦争に際しては外債募集に努め、日露戦争後は満州における中心的な金融機関となって、支店網を拡げ外国との貿易・金融の面で巨額の利益を上げた。
「昭和天皇がヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは、日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」
『米従軍記者が見た昭和天皇』ポール・マニングHIROHITO : the ar years(Manning, Paul)マルジュ社 2005
天皇家が日清戦争で味をしめたのは有名な話である。この侵略強盗戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円。何故かこのうちの二千万円が皇室の財宝となった。
次の大戦のさなか参謀本部の将軍達から逐一詳細な戦況報告を受け一喜一憂しながら戦争にのめり込んで行く天皇の姿は、さながらイラク侵略の戦況に眠られぬ朝を迎える石油資本の株主たちと重なる。
http://zenkyoto68.tripod.com/zaibatu01.htm
明治維新以来、最高の財政ブレーンが皇室の富を極限まで増やすために働いてきた。賄賂がきかないくらいに天皇を金持ちにせよというビスマルクの助言に沿って、日本の一流企業や銀行の株式と年間収益の10パーセントが天皇に譲渡されたのである。(中略)
 裕仁は海外にも莫大な資産を持っていた。これには欧米の銀行、製造業、不動産への巨額の投資や、さまざまな隠れ蓑(みの)のもとでスイス、スウェーデン、ヴァチカン、ポルトガル、アルゼンチン、スペイン、英国、アメリカの銀行の金庫に預けていた金塊、白金、銀が含まれていた
 この天皇家の財産を、アメリカによる本土侵攻を予想した内大臣の木戸が、天皇の財務顧問だった有力者の勧めに従って、「手元にある天皇の流動資産のほとんどはスイスの複数の銀行が東京に置く支店に移され、本国の口座に預金された
http://www.dailytimes.jp/environment/2007/03/post_3.html

 天皇の財産
いかなる財閥も、さかだちしても追いつけない急激な膨張ぶりであった。
「・・・明治十四年の皇室料地わずか六三四町歩は、九年後の明治二十三年には三六五万四千町歩に達していた。これはじつに六千倍で、その年の民有林野総面積八三八万五千町歩の半分に近い。
 さらに、土地以外の株券と貨幣による皇室財産は、十五年の一七一万余円が、十七年十二月には日本銀行の株式三五〇万円をくみいれ、さらに二十年に日本郵船の株式二六〇万円を収めて、同年末には小計七八八万五千余円の巨額にのぼっていた。
 いかなる財閥も、さかだちしても追いつけない急激な膨張ぶりである。・・・」「中公文庫 色川大吉著 日本の歴史21」
・・・・当時は、米一升が六、七銭で購入できた。当時の1円は現在の1万円程度と考えるとほぼ理解出来る。・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E8%B2%A1%E7%94%A3
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj010827.html

天皇家の財産が国民の前に明らかにされた時、その莫大さに国民は驚いていた。
土地 135万町歩余 3億6000万円余
木材 5億6000万石余 5億9000万円余
建物 15万坪 2億9000万円余
現金 2400万円余
有価証券 3億1000万円
合計 15億9000万円余
評価額は戦争直後の標準によったが、その後の評価では660億円以上とされている。昭和36年の物価は最初の評価の500倍以上にあたるから総計は8000億円以上に達すると思われる。
現在の価格では数兆円を軽く超えるものと言えよう。最初の評価の基礎は、土地一反が26円余という当時でも時価の十分の一、木材は一石一円で百分の一という不当に安い評価である。この評価は政府や宮内省が行ってGHQや世界の注目をまぬがれようとした小細工である。
 
土地の135万町歩は日本の面積の3%以上に当たる。5億6000万石の木材は日本全林野の8%に当たる。有価証券では配当金だけで年800万円もあった。昭和天皇は個人としては世界最大(?)の地主であった。個人としては世界最大(?)の大ブルジョワであった。
http://www.asyura.com/0411/bd38/msg/785.html
一家族で15億、、、
現金など3億3千万、、、、
昭和20年11月と言えば国民は飢餓状態、
公務員月給65円、米10キロ6円の時代。
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昭和天皇は何故戦争を起こしたのか
日本の経済発展を支えた侵略戦争
明治維新以前、江戸時代には、士農工商という厳しい階級差別がありました。大商人といえども、社会的には低い地位に押さえられていました。それが明治維新によって、封建制の束縛から解放され、企業家たちは活発な企業活動を開始します。そして日本の経済は資本主義的に急成長します。その中で三井物産などは江戸時代から中国などにある程度進出していましたが、基本的には日本国内での活動でした。
ですから明治になって二~三〇年も経つと、商品を造っても国内投資ではさばけなくなってくるし、新たな投資の場も国内だけでは限りがあって、経済成長が横這い状態になってきました。

伊藤博文と海外侵略
日本経済の発展が行き詰っているその頃、海外視察から帰ってきた伊藤博文が、全国遊説したときの原稿が国会図書館に残されています。その演題は『世界の進歩と日本国民の自覚』です。その要旨は、
「今や世界各国は商工業の競争を世界に行なっており、そして最近の戦争は、単に領土を広げたり、国の名誉のためではなく、商工業の利益を世界的に拡充したり、その拡充を妨害されるのを防ぐために起こしている。
日本も国内の団結を固め、世界の列強と争って商工業の発展をすることを、日本の基本方針としなければならない。そのためには軍備を拡張して、商工業を中国や朝鮮、或いは東南アジアにまで発展させなければならない。」という内容です。

要するに日本の経済発展のためには、戦争をして中国、朝鮮、東南アジアを植民地にし、資源と労働力を独占的な市場を獲得しなければならないという事をいっています。
この方針のとおり、日本は明治維新以後着々と軍備を増強して1894年の日清戦争以来、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦と、10年置きに戦争をしています。そしてその戦争の度に台湾、朝鮮、満州と次々に植民地を獲得し、それをバネに経済成長しています。
日本の資本主義社会の土台を築いたといわれる伊藤博文は、もともと貿易業を営んでいました。それが明治維新直後に、貿易業を三井に任せて自分は政治に専念しています。以後三井との二人三脚ぶりは随所に見られます。
1905年、伊藤博文は、第二次日韓条約を結んで、朝鮮を日本の保護国にしてしまいます。そして自ら統監となって朝鮮の完全支配を始めますが、1909年朝鮮独立運動の義士安重根によってハルピンで射殺されました。

軍備増強と国会議員買収
日本最初の侵略戦争ともいうべき日清戦争前後の時代、資料として面白いというかあきれた資料が残っています。伊藤博文の演説にもあるように、侵略戦争のために軍備増強を達成するためには、増税しなければなりません。その時点の首相は、山県有朋です。山県内閣は、国会に増税案を何度も上程するのですが、否決されます。
そこで山県は、反対派の国会議員を買収するために、議員の歳費を一挙に五倍に引き上げた上に、有力議員に直接買収資金を多額与えて、増税案を成立させました。
その買収資金を提供したのは天皇でした。当時のお金で98万円です。今のお金にしたら恐らく100億円以上のお金でしょう。
当時1000円で都心に一軒家が買えた時代ですから。このことが今私たちにわかるのは、このいきさつをみていた西園寺公望の日記が国会図書館に残されていて、その中に書かれていたからです。その中には
「首相の山県は、国会議員買収のため天皇から受け取った資金を、どうも一部自分の懐にいれているようだ」と書いています。現在の自民党幹部と同じですね。
しかし、天皇が何故こんな大金を出したのか、日清戦争で天皇がどれだけ儲けたかを見ればよく分かります。
日本は国家予算をふんだんに使って軍備を大増強して、日清戦争に勝ちました。日本は、清国から賠償を三億五千万円取ります。そのうち二千万円は天皇がもらっています。
当時国家予算が一億そこそこの時代ですから、国家予算の20%に値する金を、天皇は受け取っています。
そして、日清戦争に勝った日本は、台湾を植民地にしてしまいますが、その台湾の最大の産業の製糖業は三井物産が独占的に経営します。
天皇はその台湾製糖の第二位の株主になっています。台湾製糖の株の配当は10年後に12%、20年後には100%になっています。
しかも日清戦争に勝って、清国から国家予算の三倍の巨額の賠償金を分捕って、これが日本資本主義経済発展の土台を築くことになったといわれています。これだけを見ても、侵略戦争・植民地獲得がいかに資本家にとって儲けにつながるかが分かります。http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060821
三井物産と満州事変
ここで一つ三井物産の企業活動と軍部との関係を表す実例をご紹介しておきましょう。
日露戦争後、日本が満州を獲得して、三井物産が大きく業績を発展させた一つの部門は大豆でした。“満州”は、世界的な大豆の産地でした。それを三井物産がほとんど独占的に買い占め、その油からマーガリンを造ってヨーロッパ諸国に輸出し、油粕は国内で肥料として売ることで大いに儲かっていました。
しかし1920年代になると、三井の大豆の取扱高が伸び悩んでいます。この時期の三井物産の支店長会議の議事録が残っています。それには、「満州の軍閥張作霖が大豆の買い付けに手を出し始めたので困った」という趣旨のことが書かれています。
そのうえ張作霖は、日本が植民地支配の動脈のように利用していた満州鉄道に平行した独自の鉄道を計画して、着工を始めたのです。この鉄道が付設されてしまうと、日本の植民地経営には大きな打撃になります。鉄道工事が始まったその直後、張作霖は、関東軍によって列車ごと爆殺されてしまいました。これが1928年です。その翌1929年度の三井物産の大豆の取引高は倍近くに跳ね上がっています。
このような極端な数字は、ほかの要素も重なってのことかも知れませんが、日本の歴史書には、この張作霖の関東軍による爆殺事件は、只単に関東軍の仕業であるとしか出ていません。その後殺された張作霖の息子、張学良が父親の遺志を継いで事業を始めようとしたとき、1931年、日本軍は満州事変を起こし、次いで中国本土へと戦線を拡大し、1932年には満州国を建国しています。
<中略>
次に経済学者から提供していただいた資料にもとづいて、日本の資本が第一次世界大戦でどれ程の利益をあげたか報告します。
大戦中の武器輸出の総額は二億九千万円。武器の主なもの、銃が93660梃。野砲弾丸410万発。駆逐艦12隻。戦艦2隻。
大戦中の対ヨーロッパ投資総額、約七億七千万円。

【第一次世界大戦と日本の経済発展】
   戦争開始時 戦争終結時
株価
100 246
輸出 5億9100万円 20億9800万円
輸入 5億9500万円 21億7300万円
利潤率 15.2% 57.8%
払込資本 24億5100万円 85億5100万円
三井物産 3.96万円 36.46万円
取扱高 4億5200万円 21億300万円

しかし、戦争をきっかけにして、鰻登りに発展した日本の企業の影で、日露戦争で日露双方合計23万人の人命が失われ、第一次世界大戦では、参戦した国の軍人802万人、民間人664万人の命が奪われたことを、そして日本に支配された台湾、朝鮮、中国の民衆に筆舌に尽くし難い苦難の歴史を忘れてはならないと思います。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060822
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昭和天皇が2・26事件を起こさせた(?)本当の理由

ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。
2・26事件は為替相場を不当に操作して儲けるために起こさせたものだった.
2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した.
もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。
青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。
 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。
天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。
なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 
それは昭和天皇が、立憲君主ではなく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。
大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。

2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
 
2・26事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。
事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。
 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。
皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。

つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6863442c2632a11902486caa91a0cb55

昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。
そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。

 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。
これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

本来であれば、忘れ去られてしかるべき歴史的事件が、今もなお、
「昭和史最大の謎」として話題になるところは、2・26事件のす
ごさでしょう。
1年半前に我々がとりあげた鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日
」は8・15クーデター未遂事件は、天皇側が仕組んだ偽造クーデ
ターと考えています。そしておそらく2・26事件も。
また、8・15事件のシナリオを書いて、細かな演出をしたのは塚
本誠憲兵中佐だと紹介しています。
驚くことに、8・15クーデター事件の背後で暗躍していた塚本誠
中佐は、2・26事件のときも背後にいました。
塚本は当時、上海で憲兵をしていましたが、昭和「11年11月に(大阪
の留守宅で)三男が生まれた」とありますから、昭和11年2月ごろ日
本にいたようです。おそらく上海をベースにしながら、偽クーデターが起きるように日本にちょくちょく帰って煽って歩いていたのではないかと思われる。
記述のない前日まで日本で暗躍して、当日はアリバイ作りのために上海にいたのではないかと思われます。鬼塚さんは2・26も8・15も、天皇側が仕組んだ偽クーデターと考える。 またシナリオと演出は塚本誠憲兵中佐だとバーミガニの記述を紹介。
「塚本は、1934年に陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに
、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。彼はそれから1935年の間
じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その1つは(略)
永田軍務局長の殺人であった。」
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220305.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220216.htm
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昭和天皇が日中戦争を起こした目的

【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク
北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。


ケシ類未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものが阿片だ。阿片に含まれているモルヒネは、鎮痛・鎮静・催眠・快楽をもたらす薬剤となる。末期癌患者に使用されることが多い。しかし、連用すると中毒となり、常用しないと禁断症状に苦しむこととなる。モルヒネにアセチルを化合したのがヘロインで、薬効・中毒作用は、更に強くなる。中毒に陥ると、増量して使用しないと禁断症状を起こして死亡するし、常用すれば衰弱して早死にする恐ろしい麻薬だ。この阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中国へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。
1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。
麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を増やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。
日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。
やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。
大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めた。

さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。
拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万~8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。

阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。

三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。
南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。

これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。

満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われている。
阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴いている。長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていた。中国軍閥の張宗昌(阿片将軍)は日本軍と組んで。吉林・黒竜江省で50~60万貫のケシ栽培を扱ったという。
内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があった。阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのだ。
日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。
日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。

さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。
『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。
しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。
梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』
なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。

シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった)に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html

自民党「大物」政治家の資金源
 「小泉総理の父、祖父が、第二次大戦中、中国侵略を進めた大政翼賛会の政治家であり、安倍晋三官房長官の祖父が、中国侵略の中心人物、岸信介であり、麻生太郎外務大臣の祖父が、中国侵略軍の中核に居た吉田茂である」という家系の意味するもの。
 1939年4月、陸軍省軍事課長、岩畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作られた。
 主な業務はアヘン密売であり、実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。
 これは、1894年の日清戦争で勝利した日本の内務省衛生局長、後藤新平が、「満州経営の資金調達のため、アヘンを国策として売買すべし」と主張して以来の日本の国策だった。後藤は、後に満鉄初代総裁になっている。
 戦後、自民党から出て首相になった4人の人物が、膨大な部署のある軍部の、しかも満州の、たった1つの部署に集中していた、というのは偶然にしては余りに不自然である。
 4人の首相は、全員麻薬売買を中心的に担い、右翼の「大物」と言われる児玉誉士夫等は、むしろアヘン売買では「小物」であり、4人の首相が麻薬売買の中心に居た。
 中国における麻薬の売人が、戦後4人も日本で首相になった、その理由としては、アヘン売買の利益が敗戦とともに日本に持ち帰られ、自民党「大物」政治家の権力獲得資金源になって行った可能性が、極めて高い確率で考えられる。
 侵略戦争の中核に居た人物等の末裔が、現在、政治権力の中枢に居るのは偶然ではなく、彼等の活動資金の源に理由がある。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49243912.html

狂人達の世界帝国建設の夢
 1932年、中国に侵略を続ける日本軍は満州帝国を建国する。満州の運営資金は、事実上アヘン密売業者里見甫が全て出資し、表側の満州帝国総裁が後藤新平であれば、裏側の総裁が里見であった。
 里見は中国大陸全土に及ぶ自分のアヘン密売網を侵害する者がいれば、直ちに惨殺する殺人鬼であり、アヘン密売の利益を全て満州建国に注ぎ込む私利私欲の無い指導者として、日本軍部の軍人皆の恐怖と尊敬の的となった。
 また関東大震災の混乱に乗じ、戦争に反対するアナキスト大杉栄とその妻を絞殺した警察官甘粕正彦も、満州帝国の治安維持責任者となり、里見と共に帝国の治安を乱す者を容赦無く惨殺する殺人鬼として二人三脚で活躍した。
 一方、甘粕は満州鉄道映画製作部を指導し、「中国大陸の新しい帝国を舞台にしたロマンチックな映画」を製作する「ひ弱」でロマンチックな映画青年でもあった。
 甘粕と里見には、新しい大帝国に賭けるロマンチックな夢、情熱が巨大であればあるほど、その夢の障害になる者に対して凶暴な殺人鬼となる点が共通していた。
 大帝国建設、世界制覇という政治・経済的ロマンティシズムが大量殺戮を生み出す点は、里見、甘粕、ヒトラー、ジョージ・ブッシュあるいはロックフェラー、ロスチャイルド全員に共通する人間的欠陥である。彼等は全員世界制覇という「自分の夢」の中の住人であり、「現実世界」に生きてはいない。自分の行う大量殺戮の「現実」が見えず、見ようとしない。そのような「現実逃避型」の人間に政治を行う資格は無い。
 しかし、世界制覇、世界統一というロマンチックな夢は、最も一般市民、庶民に熱烈な支持を受ける。帝国建設というロマンチックな夢の実現の障害物を大量殺戮する殺人鬼ほど、民衆の絶大な支持を得、絶対的権力者となる。ナポレオン、ヒトラー、スターリン等への民衆の熱狂的支持はそれを物語っている。
 世界帝国実現のロマンチックな夢には、冷静な計算が必要になる。石油も鉄鉱石もなく戦争に突入する日本軍部には冷静な計算が無かった。三流の夢である。
1つ1つの企業、地域、国を順次支配下に置き、その経営、運営を成功させて行くロスチャイルド、ロックフェラー、ブッシュ一族には一流の計算能力がある。
ロマンチックな夢、狂人のような殺人鬼、冷静な実務家は1人の人間の中で共存し得る。カミソリのように頭脳の切れる優秀な天才こそ狂人になる。彼等は一流の狂人である。
 実務に優秀でロマンチックで壮大な夢を語り得る政治家ほど魅力的ではないか?政治的ロマンティシズムの行き着く先はヒトラーである。
 ナチスへの反省から生み出されたこの政治学の基本は、最近全く議論されなくなってしまった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604157.html

1897年、日清戦争に勝利した日本は中国を支配するチャンスを手に入れる。
当時内務省衛生局長であった後藤新平は、中国に日本の支配下にある大帝国を作るべきであると強く主張し、帝国運営に中国大陸でのアヘン売買の利益を充てるべきであると主張する。
これは、日本国内の食品、薬品の安全管理の総責任者、内務省衛生局長がアヘン売買を全面的に推進する意向を示したものであり、日本の暴力団は一斉に中国でのアヘン売買に乗り出す。
後に中国大陸のアヘン売買を独占する、アヘン帝国を作り上げる里見甫もその一人であった。里見は、東条英機内閣成立の最大資金源となり、東条が日本を第二次世界大戦に本格的に突入させて行く。
広島、長崎への原爆投下という悲惨な結果を生み出した戦争は、里見のアヘン資金が引き起こしたものであり、それを推進したのが後藤新平であった。
後藤は後に初代満州帝国総裁となり、アヘン売買による満州帝国建国という国策は決定的になる。
里見のアヘン帝国は、中国とベトナム、ラオス国境にまで及び、ゴールデン・トライアングルと呼ばれる、戦後一貫して世界最大の麻薬生産地帯であったこの地域は、まさに後藤の国策と里見の活動によって形成される事になる。(アフガン戦争後はアフガニスタンが世界最大の麻薬生産地帯となっている。)
また里見のアヘン・ビジネスのパートナーとなるイスラエルのアイゼンベルグは、中国共産党に深い人脈を作り、一貫して中国共産党のアヘン売買の実働部隊となるイスラエルのアイゼンベルグ社を戦後、設立する。
世界の麻薬ビジネスの礎石を、まさに里見と後藤が築いた事になる。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600765.html

1842年、アヘン戦争に敗北した中国清王朝は統治能力を失い、事実上アヘン売買を仕切る宗財閥と、それを支えるイラクのサスーン財閥に中国の経済的支配権が移る。
 上海の古式豊かな外灘(バンド)と呼ばれる街並、建築物は、全てサスーンが建造した物であり、上海の街を作ったのはまさにサスーン財閥だった。
 サスーンは上海を起点に中国中部から南部=華中・華南を結び、さらにフランス領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)を結ぶ中南支横断鉄道建設を計画し、中国北部を支配する日本の満州鉄道と連結し、中国全土と東南アジアを鉄道で統一しようとしていた。
 第二次大戦中、日本の諜報組織はアヘン売買を手掛け、中国においてはフランス諜報組織、宗財閥、アヘン売買組織サスーンと協力関係にあった(協力しなければアヘンは入手できない)。サスーンは英国諜報組織MI6と協力し、中国全土に「キングス・サービス」という諜報組織のネットワークを張り巡らせた。
 中国北部の日本の諜報組織、東南アジアのフランス諜報組織は、鉄道で統一される「大アジア」の中核、サスーンの諜報組織の補完物であった。
 現在の中国の中央銀行、香港上海銀行はサスーンの銀行に店舗を間借りして設立された。中国国民党・蒋介石の最大資金源がサスーンであった。このサスーンと宗財閥の実働部隊であったアジア全域に及ぶ李一族は、現在も中国の李鵬首相(元)、李承全国家主席、台湾の李登輝総統、シンガポールのリー・クアンユー首相(注)等を結ぶ李一族の地下経済ネットワークとして、共産主義中国の崩壊後を担うアジアの統一政権の基盤を着々と準備しつつある。
 アジア全域を支配したサスーン財閥に優秀な後継者が育たなかったため、壮絶な縄張り抗争と殺し合いの末、アジア全域のアヘン密売を握ったのがイスラエル最大の軍事産業アイゼンベルグ社であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49431165.html

 日本に訪れた昭和初期の大不況で、生活に困った日本人の多くは中国大陸に渡った。それは日本のヤクザ、暴力団も同じであった。
生活に困った日本人は、日清戦争以後、半ば日本と世界各国の植民地のようになった中国に渡り、莫大な利益を求めて中国でビジネスを行った。
 その中で、三井、三菱といった大財閥に資金を出資させた右翼の大物、里見甫(はじめ)の昭和通商という企業は、目立たないが最大手の企業であった。里見がそこで扱うのは麻薬、アヘンであった。アヘンを扱う暴力団のフロント企業に、三井、三菱といった大財閥が出資していた事になる。
 中国大陸のアヘン市場は、アヘン戦争以降イラク出身のサスーン財閥の独占市場であったが、英国軍部と結び付いたサスーンは、中国大陸とアヘンの供給地東南アジアにおいて、フランス軍が勢力を伸ばし、さらに日本軍が中国大陸において大規模な侵略を始めると、少しずつその勢力範囲を狭めて行った。
 中国国民党を支持していたサスーンは、中国共産党とは折り合いが悪く、最終的に共産党が政権を取ると、サスーンは中国のアヘン市場を失う事になる。
 この世代交代につけ込んだのが里見であった。里見は三井、三菱を背後にした資金力と飛び抜けた商才で、中国の地下経済を支配する青パン、紅パンと呼ばれる秘密結社にまで幅広く人脈を広げ、一時期は英国を始めとしたアングロサクソンを排除し、中国のアヘン市場を支配下に置いた。
 その背後には、サスーンを中国アヘン市場から追い出し、次の世代の中国アヘン市場を狙うアイゼンベルグ社(後にイスラエル建国の中心となる)と里見との提携があった。米国全土の麻薬組織、マフィアの「統一」を果たした「殺人株式会社」の軍事部門アイゼンベルグと、日本の大物右翼、三井、三菱財閥が連携していた。この日米マフィア連合が英国麻薬業者の追い出しを行っていた。麻薬争奪戦争であった。
 アイゼンベルグは第二次世界大戦中、戦後におけるイスラエルの建国を目指して日本に「研修」に来ていた。後進国の日本がどのようにして産業を育成したかは、これからイスラエルを建国しようとするアイゼンベルグにとって、一つのモデルとなる。
 日本政府が国営で八幡製鉄所を作り、経営が軌道に乗り、一定の時期が来ると民間に企業を「払い下げ」、民間企業、新日鉄としたその手法はアイゼンベルグによって十分に研究、吸収され、戦後イスラエルの産業復興の手法として、アイゼンベルグによって生かされる。
米国最大のマフィア組織であるアイゼンベルグと、日本の大物右翼、ヤクザである里見甫はここで出会う。アイゼンベルグの経営者ショール・アイゼンベルグは、1940年に新日鉄の会長であった永野重雄の娘と結婚している。そこから日本の産業界のイスラエル人脈は延々と続く事になる。現在の麻生外務大臣の経営する、麻生セメントの親会社ラファルジュ(フランスのセメント会社)のさらに親会社がアイゼンベルグである。
 この昭和通商で、里見甫の部下として「金儲け」のため麻薬売買を担った人物達の中に、右翼の大物、児玉誉士夫、そして岸信介、佐藤栄作、池田勇人がいた。
これは、戦後の日本で自民党の総理大臣になる面々が「偶然」にも昭和通商で麻薬売買を行っていたという事ではなく、中国のアヘン売買で「荒稼ぎ」した里見甫とイスラエル、アイゼンベルグの資金が、戦後の日本の権力者を生み出して来た事を意味する。
 日本が第2次世界大戦に突入して行く契機となったのが、東条英機の大政翼賛会の結成であった。野党までが戦争賛成なる「挙国一致」体制の成立で、野党による与党のチェック、戦争反対の声が完全に抹殺されてしまった。
東条英機はこの大政翼賛会の結成を、野党議員の「金による」買収で成し遂げた。その買収資金の提供を求め、東条が「泣き付いた」相手が右翼の大物、里見甫であった。里見とアイゼンベルグの麻薬資金が日本の戦争体制を「成立」させていた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49599920.html

1941年、上海のプロテスタント教会を次々と日本軍のスパイ組織、上海海軍武官府・特別調査部の兵士達が急襲する。日本の諜報組織は、プロテスタント教会が麻薬組織サスーンの事務所になっているとの情報を得て、教会を急襲した。
元々、中国の小さな地方都市に過ぎなかった上海を開発し、租界と呼ばれる街路を整備したのは、麻薬業者のサスーンであった。
第二次大戦中までは、上海の街並みの全ての建築物が、サスーンによって建造されたと言われる程、上海はサスーンの街であった。
しかし満州帝国を建設し、さらに南下しようとする日本軍にとって、敵国・英国と一体化したサスーンの上海支配を壊滅させる事は必要不可欠であった。そこにはサスーンの麻薬組織を破壊し、日本軍部の資金源である里見甫の昭和通商に、アヘン売買を独占させる目的もあった。
 教会を急襲した当時の上海海軍武官府・特別調査部の記録によると、教会の地下にはサスーンの事務所が置かれ、そこからは英国諜報組織MI6の中国エージェントの名簿、秘密結社フリーメーソンの祭壇、おどろおどろしいフリーメーソンの儀式の用具が発見されたと言う。
 日本の軍部は、このフリーメーソンの祭壇を見て、「頭のおかしなカルト」が関わっているといった程度の認識しか持たなかった。その事が、後に日本の太平洋戦争における壊滅的敗北という事態を招く、諜報上の大失敗になるとは全く予想もしていなかった。
 当時、日本軍は東南アジアに侵攻していたフランス軍と協力関係にあった(注)。中国の中部、南部を支配する英国に対し、北部を支配する日本軍と東南アジアのフランス軍で挟み撃ちにする戦略であった。
フランスは日本にとって敵国であったが、敵の中に「協力者」を作るのは諜報の常識であり里見に協力するアイゼンベルグは、フランス軍と日常的に連絡を取っていた。アイゼンベルグは日本に到達する前に、イスラエル国家建設を目指して、世界各国のユダヤ人街を巡り、各国の財閥に支援を仰いでいた。
当時、フランスの統治下にあったアルジェリアの経済界は、ユダヤ人街が独占支配しており、アイゼンベルグはアルジェリア支配のため、ユダヤ財閥と一体化していたフランス諜報部に深い関わりをもっていた。
東南アジアを支配するフランス軍の実態は、そこでゴムや米作の大農園を経営するフランスの穀物商社ドレフュスであったが、後にドレフュスはアイゼンベルグ社の子会社になる。
このパイプでフランス軍と日本軍は密通していた。
 しかしアイゼンベルグは単に日本で技術を学び、中国で麻薬売買を行い、利益を得るためだけにアジアに来ていたのであろうか?
 1935年、ロンドンでは国際ユダヤ財閥会議が開かれ、サスーンの街である上海から東南アジアに至る中南支横断鉄道の建設と、それを要とした南アジア大帝国の建設、その地域の資源開発が決議されていた。その出資者は、アイゼンベルグとサスーン、ドイツのオットー・ウルフ財閥、ロスチャイルドであった。
アイゼンベルグは日本と協力しながら、同時に日本の敵国・英国サスーンとも協力し、中国中部、南部、東南アジアに渡る南アジア大帝国を作り上げようとしていた。アイゼンベルグは、そこにイスラエルを建国しようとしていたのだ。
 そのアイゼンベルグが日本に「協力」する意図は、アイゼンベルグの南アジア大帝国により、中国北部の日本の満州帝国を「飲み込み」、アジア統一大帝国イスラエルを建国する事にあった。
稚拙な諜報能力しか持たない日本政府が、夢にも想像出来ない戦略であった。
そしてアイゼンベルグは、麻薬売買において自分と対立するサスーンとも結び、日本、英国、フランスのどの国が戦争に勝利しても、そこにイスラエル建国の可能性を確保する戦略を取っていた。
そこには、米国の過酷なマフィア戦争を勝ち抜いてきた、戦略家アイゼンベルグの才覚が見事に発揮されていた。
石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入してゆく、粗末な外交能力しか持たない日本、ロンドンのユダヤ財閥会議の動きさえ察知出来ていない稚拙な日本の諜報能力、これが日本を壊滅に導く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600090.html

1941年、創立と同時にCIA(当時はOSS)は、中国において急速に勢力を伸ばしつつあった中国共産党の実態調査に取りかかる。
 中国に全くコネクション(つながり)の無かったCIAは、ボスである英国諜報組織MI6に依頼し、MI6の中国における出先機関であった麻薬密売組織サスーン財閥に協力を要請する。しかし中国国民党と連携し中国南部に帝国を作ろうとしていたサスーンは、共産党とは関係が険悪であり、結局中国南部の帝国建設でサスーンに協力していたアイゼンベルグをCIAに紹介する。
 アイゼンベルグと共に満州建国資金をアヘン売買で稼ぎ出していた里見甫の元に、CIA局長ワイルド・ドノヴァンから派遣されて来たのは、ドノヴァンの親友で部下でもあるウィリス・バード中佐と北京語の通訳としてパレット大佐であった。
 アイゼンベルグと里見は、後にCIAの中国支部の事務所が設置される延安にバードを連れて行き、中国共産党の諜報組織の代表、恵生に引き合わせる。後に中国共産党の諜報組織、中国特務機関(中国のCIAに該当する)の長官として戦後長く君臨し、中国共産党の秘密警察、暗殺部隊の指揮官として中国の政治家・官僚達に恐れられる事になる中国共産党の「影の実力者」恵生である。
結局パレットの通訳では時間がかかり過ぎるため、英語の出来る通訳として、この会談には江青女史が同席する事になった。毛沢東夫人の江青である。
 会談では、日本軍と戦闘を繰り返す中国共産党に米軍とCIAが全面的に協力する事が決定される。
(山極晃著「米戦時情報局の延安報告と日本人民解放連盟」大月書店) 
 米軍にとっても日本軍は敵であり、CIAと中国共産党は利害が一致していた。
世界の動きが見えていた里見は、石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入して行く日本政府の無能さに軽蔑しか感じていなかった。日本の国の枠から飛び出し、アイゼンベルグと共に英仏と協力しながらアヘンを売買していた里見は、もはや日本人ではなく「帰るべき故郷」の無い国際人になっていた。
 満州は里見にとって自分の作った芸術作品であり、日本国家とは何ら関係が無かった。無能な日本国家が滅亡する事を里見は嘲笑していた。
そしてこの時に始まった中国共産党とイスラエル・アイゼンベルグ、CIAの協力関係は、2007年現在まで絶える事なく継続し続けている。
 71年の米国、中国の国交回復、CIA出身のヘンリー・キッシンジャーによる米国、中国の経済協力関係等は、この諜報における中国と米国、イスラエルとの一体化のごく一部が表に出たものに過ぎない。米国が中国にミサイル技術を供与してきたイスラエル・ルートがこれである。(売ったのはCIA放送局と異名を持つCBSTV社長ウィリアム・ペリーである。)戦後、中国共産党の核兵器開発を担って来たのはアイゼンベルグ社である。事実上、中国をボスとしている北朝鮮の核兵器開発の技術はパキスタンから学んだものであったが、パキスタンの核兵器開発を担ってきたのがアイゼンベルグであり、そこに北朝鮮を同席させて「学ばせた」のはアイゼンベルグである。
特に軍事面では、中国共産党とはアイゼンベルグの事である。  
 この中国共産党、CIA、アイゼンベルグの協力関係は41年に始まっていた。
恵生、アイゼンベルグ、CIAの会談では、中国共産党がその活動拠点の山間部、農村でアヘンを生産し、CIAとアイゼンベルグ、里見がそれを売り捌く事で一致を見る。この会談後、中国共産党は特に福建省南部、江西省の井崗山地域でアヘンを大々的に生産し始める。その利益は中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAの間で折半される。
この構造は2007年現在まで変わらない。アヘン販売ルートを支配しているアイゼンベルグとCIAは、中国共産党には無くてはならない協力者である。
このアヘン取引を基本に、イスラエル・アイゼンベルグは核兵器技術と最新鋭の通常兵器を中国共産党に販売し、CIAも中国に兵器を販売し続けて来た。
中国共産党は、アヘン売買の利益を兵器購入代金に充てて来た。中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAは皆「同じ商売仲間」である。
 70年代初頭、ベトナム戦争により中国政府と米国政府が対立していた時も、中国特務機関とCIAのビジネス・パートナーには何ら変化は無かった。
敵と結ぶ、それが諜報である。
 国家同士が激しく対立する時、諜報機関同士も激しく対立するならそのような諜報機関は三流四流である。国家同士が激しく対立する時、敵国と今までにも増して親密な友好関係と利害の一致を裏側で作り出す、その事によって戦争は回避され自国民の生命が守られる、それが諜報の仕事である。国家にとっての敵国と利害の一致を作り出し、戦争を回避し国民の命を守る・・諜報の本質は自分の国家を裏切り、自分の愛する国家の国民の命を守る事にある。自分の愛する国家の国民の命を守り、自国を裏切り、敵国にも睨まれ、孤立して犬死にする事が諜報員の仕事である。誰も気付かず評価もされず、しかし自分の愛する自国民の命が戦争の回避で救われ、その事を唯一自分の勲章として名誉を感じ、犬死にして行くのが一流の諜報員の仕事である。
第二次世界大戦中は、中国アヘン売買の利益は3等分され、一方では満州帝国を壊滅させようとする中国共産党とCIAの武器購入費用となり、他方では里見の満州帝国を守るための武器購入費用となった。敵国同士の資金源が同一である矛盾など、中国共産党もアイゼンベルグもCIAも里見も誰も問題にせず、矛盾などとは考えない。それが諜報というものであり戦争というものである。これが「当然の常識」であるという認識がないと、「世界の実相」は 遂に最後まで見えて来ない。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49603529.html

 1932年、満州帝国初代総裁に就任した後藤新平は、同盟国ドイツでヒトラーの兵器を独占的に製造するクルップ社の重役ゲハイムラート・ウィーネフェルトを顧問に採用する。やがてウィーネフェルトがヒトラーの命令で駐米ドイツ大使に転出すると、その秘書フリードリッヒ・ハックがそのまま満州帝国総裁顧問に就任する。
 ハックは当時、ベルリン日本領事館の名誉領事であったドイツ軍のアドルフ・シンツィンガー元陸軍少佐と「シンツィンガー・ハック社」という兵器商社を経営する武器商人であった。ハック社は日本軍、特に日本海軍御用達の大型機械、
戦艦用部品専門の商社であり、ハック社が無ければ日本が中国侵略に使用する武器、食料、軍需物資を運搬する船舶が動かなかった。
 このハック社のもう一人の共同経営者で、日本と欧州を行き来し、日本が中国侵略に使用する兵器、太平洋戦争に使用する軍艦部品、その工作機械を日本、満州に運び込んでいたのがポール・ブルームというアイゼンベルグの親友であった。
 ブルームがヨーロッパで買い付けて来る兵器と軍艦部品は、アイゼンベルグと里見甫が行う中国でのアヘン密売の利益で支払われた。日本の中国侵略戦争は、アヘン密売人アイゼンベルグとその親友・武器密輸商ブルームが陰で支えていた。
 このハック社の創業資金は、南アフリカの金塊業者オッペンハイマー一族から出ていた。ブルームは第二次世界大戦後、CIAの初代日本支局長になり、吉田茂首相を連日呼び付け、戦後日本の国家政策を全て決定して行く。
 軍人で政策には精通していないダグラス・マッカーサーが、表向きの日本の支配者であれば、 ブルームは国会で通過する法案の細部まで細かな命令を出す「裏側の支配者」となる。
 かつて吉田茂首相は、満州で里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」の社員、里見の部下としてアヘン密売に従事、日本の中国侵略資金の捻出を担当していた。そのアヘンの利益で吉田茂、里見からブルームは満州帝国に納入する兵器の代金を得ていた。満州帝国をアヘン密売と武器密売で支えた吉田茂とブルームが、首相とCIA日本支局長として、事実上、戦後の日本の進路を独裁的に決定して行く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604875.html
第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。
巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。
福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。
福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。
53年、自由党から出馬し国会議員となった岸は、54年、米国で「2大政党制」を強く主張するロックフェラーの民主党に習い、日本民主党を旗揚げし幹事長となる。この日本民主党には社会党等の労働運動勢力も含まれていた。
岸のその行動は2007年現在の小沢一郎と極めて類似している。(小沢の著書には、ロックフェラーが推薦文を書いている)
岸の政界資金は福家を通し里見から出ていた。
52年4月25日付の日本統治軍GHQの「防諜レポート」には、里見と福家が密談し岸に政界工作資金を提供している点について、「要監視、注意」と報告を出している。
55年8月、日本ではまだ無名であった岸は、重光葵外相と共に訪米しダレス国務長官と会談し、雑誌「ニューズウィーク」の表紙を飾る。重光外相は一切報道されず、無名の岸が「次期日本の総理大臣」と報道され、一躍米国で有名になったのである。
満州帝国に武器を納入していた武器商人ポール・ブルームは、OSS(CIA)の欧州責任者アレン・ダレスの部下であり、ブルームの納入する兵器代金は中国でのアヘン売買の利益で支払われ、実際に支払っていたのは里見であった。
この資金が欧州での米国スパイ組織ダレス機関の活動資金として役立っていた。岸はその里見の部下であった。岸は訪米し満州時代からのビジネス・パートナー、ダレス兄弟の1人と会談しただけであった。
ニューズウィークはダレスのボス、ブッシュ大統領一族の経営するハリマン銀行会長エイブリル・ ハリマンが創立した雑誌であった。
ブッシュのボス、ロックフェラーが2大政党制度を強く主張し米国で民主党の絶大な支援者である事を、岸はボスの里見から教えられていた。
ロックフェラーのコピーを日本で行うよう、岸は里見から指示されていたとも言える。
岸は訪米中、ニューズウィークの編集長オットー・カーンの紹介で、戦後日本の政治家としては初めてロックフェラー三世と会談する。岸はロックフェラーの「お墨付き」を貰って来たのである。
 日本に帰国すると岸には24時間、ロックフェラーとブッシュの子分、ニューズウィーク日本支局長オンプトン・パケナムが「英語語学教師」として付き従う事になる。岸は24時間、ロックフェラーとブッシュに監視される事になる。
57年、岸は里見のアヘン資金で首相となると、6月、即座に訪米しアイゼンハワー大統領、ロックフェラー三世と会談し、日本に永久的に米軍を駐留させる事で同意する。
ゴルフ好きであった岸を会談の合間にゴルフに誘い出し、一緒にゴルフコースを回ったのは、常に祖父プレスコット・ブッシュであった。
ブッシュと岸がゴルフをしている間に、ブッシュの経営する軍事産業専門の投資会社カーライルの子会社、デュロン銀行社長ダグラス・デュロン国務次官が、日本に米軍を常駐させる日米安保条約の素案をタイプし、また日本の自衛隊に売り付ける兵器の見積もりを計算していた。
65年、里見が亡くなると、岸は恩師の死に涙を流しながら達筆な毛筆で「里見甫」と大書する。その文字がそのまま里見の墓標に刻印される事になる。
里見の資金を引き継ぐ後継者が、岸信介である事を遺族全員が認めていたからである。その岸の人脈と金脈を引き継ぎ、首相となったのが現在の安倍総理である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605010.html

現代日本を作った男ブルーム
第二次世界大戦後、初代CIA日本支局長となり、日本の主要官庁責任者、大臣、首相を連日呼び付け、政策、法律の細部に渡り細かな指示を与え、事実上戦後日本の「運営者」となるポール・ブルームは、1898年、日本の横浜に生まれた。
南アフリカの金塊生産を独占するオッペンハイマー一族の末裔であるブルームの父母は、横浜で金塊取引業を営んでいた。
1897年の日清戦争に勝利した日本は、中国大陸での資源開発や投機ビジネスに乗り出し、続々と富裕層とビジネスマンが中国へ渡航して行った。
また後に満州帝国総裁になる内務省官僚、後藤新平の「中国でのアヘン密売を奨励し、その利益で中国に大帝国を建設すべし」という主張に合わせ、日本の暴力団、右翼組織が続々と中国での麻薬ビジネスに乗り出して行った。
そして崩壊寸前であった中国の清王朝の発行する紙幣など誰も信用せず、当然、中国満州でのアヘン取引は金塊で決済されていた。その金塊を供給していたのが南アフリカのオッペンハイマー一族であり、その日本支部ブルーム一族であった。
1842年のアヘン戦争以来、中国で行われる米国のアヘン貿易を独占して来たのは、ブッシュ大統領一族のラッセル社であった。中国大陸でブッシュ一族の行うアヘン貿易の決済も、ケミカル銀行を窓口としてオッペンハイマー一族の提供する金塊で行われていた。
ケミカル銀行は、シティバンクの経営者でもあるジェームズ・ベーカー一族の経営する銀行である。
1991年、父ブッシュがイラクと湾岸戦争を行った時の国務長官ベーカー、2007年現在のイラク戦争に協力するように、ドイツ、フランスを説得して回った子ブッシュの欧州特使ベーカー、その一族はアヘン戦争時代から、ブッシュ一族のアヘン密売のマネージャーとなっていた。
かつては、ブッシュの行うアヘン密売の決済をベーカーがケミカル銀行でマネジメントし、現在はブッシュの行う湾岸戦争とイラク戦争を、相変わらずベーカーが閣僚、特使としてマネジメントしている。
現在でも世界各地で行われる麻薬密売の決済には、南アフリカのオッペンハイマー一族が提供する金塊が使用されている。その代表的窓口となっているのが、 決して警察が立ち入る事の出来ないオフショアである、英国領バミューダの投資会社ミノルコの口座であるが、この麻薬密売の決済企業ミノルコは、ベーカー一族の経営するシティバンクの代表取締役ウォルター・リストン、シティバンクの顧問弁護士ロバート・クレアが経営している。
アヘン戦争の昔も現在も、麻薬密売の決済は、ブッシュ大統領、そしてベーカー一族の銀行シティバンクとケミカル銀行が行っている。
また現在でも、麻薬密売に使われる金塊はオッペンハイマー一族が提供しているが、カナダの金塊生産を独占するオッペンハイマーの子会社、バリック・ゴールド社の経営者が父ブッシュである。
アヘン密売人ブッシュが、オッペンハイマー一族の「子分」である事は、今も昔も変化が無い。
1900年代初頭、続々と中国大陸での麻薬密売に乗り出した里見甫など、日本の暴力団の麻薬「決済」を担ったオッペンハイマー日本支部が、横浜のブルーム一族であった。そのブルームが、つまり南アフリカのオッペンハイマー一族が、戦後日本の進路の全てを細部に渡り決定して来た。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605378.html
1945年、第2次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来ると、日本の政治は米軍の命令通りに行われ米軍の指揮下に入る。日本の総理大臣を毎日呼び付け、連日細かい指示を与えたのがCIA日本支局長ポール・ブルームであった。
ブルームが2007年現在の日本の出発点を決めていた。
ブルームは1898年、日本の横浜に生まれた。世界の金塊GOLD、ダイアモンドを独占支配する南アフリカのオッペンハイマー一族にブルームは属していた。父母は横浜で貴金属商を営み、中国に金塊を輸出していた。
当時、日本は中国へ軍隊を送り込み侵略戦争を行っていた。日本の軍隊に必要な武器、弾薬、ジープ、戦車等の購入費用に困った日本政府は、中国で麻薬、アヘンの密売を命令し、その利益で武器を購入していた。
当時、中国は国家が崩壊状態であり、国の印刷する紙幣というものが無かった。
日本政府の麻薬密売と武器購入は金塊で支払いが行われていた。ブルーム一族はその金塊を提供していた。
中国での戦争が拡大すればするほど、武器はたくさん必要となり、支払いのための金塊もたくさん必要となった。貴金属商のブルーム=オッペンハイマーにとって、戦争によって商売が拡大した。オッペンハイマー一族は、商売の拡大と共に優秀な営業マンを必要とした。
オッペンハイマー一族が目を付けたのが、日本育ちのポール・ブルームである。
中学卒業と同時に、ブルームは本家のオッペンハイマーに呼び寄せられ、ジュネーブのハイスクールに入学する。その時ブルームは、米国のCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスの下で諜報員(スパイ)としての訓練を開始する。
現在のブッシュ大統領一族は、オッペンハイマーのカナダ支部であるバリックゴールド社の経営者であり、オッペンハイマーの提供するダイアモンドを使った
ドリル製造会社ドレッサー社の経営者である。石油を掘り出しダイアモンドを鉱山から掘り出すためのダイアモンド・ドリルのメーカーである。
ブッシュ大統領一族は、オッペンハイマー一族の下請け人一族であり、CIAの創立資金を提供していたのが、このブッシュ大統領一族であった。
オッペンハイマーの優秀な営業マンとしての教育を、オッペンハイマーの下請け人ブッシュ一族=CIAが請け負った事になる。
当時、ヨーロッパではナチス・ドイツ=アドルフ・ヒトラーがユダヤ人を大量に殺害しその財産を奪っていた。ヒトラーがユダヤ人から奪った貴金属、金塊の販売を担当していたのが、ブッシュ一族の経営するユニオン銀行であり、ユニオン銀行のヨーロッパ支店長が後にCIA長官になるアレン・ダレスであった。
ブッシュ一族のユニオン銀行のヨーロッパ支店長ダレスが、そのままCIAのヨーロッパ支局長であった点にブッシュ=オッペンハイマー一族とCIAの一体化が読み取れる。ブルームはこのダレスによって育てられ、後にCIA日本支局長となる。
こうして見ると、CIAがブッシュ=オッペンハイマー一族の「私的」な情報収集組織=スパイ組織として発足している事が分かる。
当時、CIAヨーロッパ支局長のダレスの下には、ブルームの他に同じオッペンハイマー一族のヘンリー・キッシンジャーがいた。
ブルームは日本へのCIA工作員=スパイであり、キッシンジャーはソ連(ロシア)に対するCIA工作員(スパイ)であった。同じダレスの部下として、同じオッペンハイマー一族として、ブルームとキッシンジャーはジュネーブの地で、しばしば共に食事や個人的交友をしたであろう事が想像される。(資料が残っていないため、この点は想像である。)
スパイを養成するには子供の頃から訓練しなければならない事は、高校時代からダレスに教育されたブルームが一番知っていた。1945年、CIA日本支局長となったブルームは、日本人のCIA工作員(スパイ)となる人材を探し始める。
ブルームは、当時、日本の吉田茂首相を毎日呼び付け、日本の政治に様々な命令を下していた。ブルームはしばしば吉田茂の自宅を訪問もし、深夜まで吉田首相と会談した。その時ブルームが目を付けたのが吉田茂首相の孫であった。
ブルームは吉田首相の孫を自分の家に引き取り、子供の頃から工作員(スパイ)として徹底的に教育し育て上げる。
この吉田首相の孫が、2007年現在の麻生太郎外務大臣本人であり、日本の次期首相候補の最有力者である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607501.html

 第二次世界大戦後、日本に進駐して来た米軍GHQには、冶金(やきん)課という部署が設けられた。金塊を生産する国ではない日本に、金塊、貴金属を扱う専門部署が設けられた事は、極めて奇妙であった。
 日本軍は第二次大戦中、中国大陸や朝鮮半島で中国、朝鮮の人々を多数殺害し、その財産を略奪し、また中国においてアヘンを密売し、その莫大な利益を蓄積していた。
 戦争終結間際、日本軍はその莫大な利益を金塊、プラチナ、ダイヤモンドに代えて飛行機で日本本国に持ち帰っていた。その莫大な貴金属は日本各地に隠され、また日銀の地下金庫に保管されていた。
 その隠された財産を摘発、没収するため、GHQには貴金属担当の専門部署が設けられていた。
 戦後GHQは、日本軍の隠した貴金属を次々と発見していくが、発見されたものは米国政府の命令で米国本土に送り、米国の財産としなければならなかった。
 しかし、日本軍部が自己所有として記録に残した貴金属と、実際に米国本土に送還された貴金属の量には圧倒的な「差」があった。日本軍の隠した貴金属摘発を担当したのは、GHQのマッカート少将であったが、実際に実務を仕切ったのは冶金課長のジョージ・パーディであった。 
 なおパーディがGHQから貴金属を奪うに当たっては、オッペンハイマー一族のポール・ブルームCIA日本支局長が当然大いに協力した。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605569.html

 第二次世界大戦後、CIA日本支局長として日本に米軍基地を常駐させる等、現在の日本の政治路線を事実上決定し、また2007年現在の麻生太郎外務大臣を育てたポール・ブルーム。第二次大戦中、CIAにおけるブルームの上司は、後にCIA長官となるCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスであった。
当時CIAの活動資金は、ブッシュ大統領一族の経営するユニオン銀行から出ており、ダレスはユニオン銀行ヨーロッパ支店長でもあった。

ブッシュ=ダレス=ブルームは、第二次大戦中における日本の軍事力増強に全面的に協力していた。ブルームの経営する(つまりブッシュの経営する)武器密輸商「シンツィンガー・ハック」社は、日本海軍の軍艦建造に必要な軍艦部品、金属を専門に輸出していた。敵であるはずの米国が日本の軍事力の増強の中心にいた。日米戦争=日本と米国の対立・戦争は「茶番劇」であった。
一方、1930年代、米国議会に日本との戦争実行を強く働きかけていたのはブッシュの経営するハリマン銀行社長エイブリル・ハリマンであり、日本との戦争に備え米軍が兵器を大量に購入し始めると、その兵器を製造し「金儲け」に専念し始めたのもブッシュのハリマン銀行の支配下にある軍事産業であった。
日米戦争・・米国政府に武器を売り付け「金儲け」するブッシュ一族は、同時に部下のブルームを使い、日本に兵器と軍事物資(鉄鋼製品、ニッケル、チタン等の希少金属)を販売し利益を上げていた。
また、日本に鉄輸出を禁止し、米国国内での「日本との開戦論」をアオった悪名高い「ハル・ノート」の起草者コーデル・ハル国務長官は、ブッシュの顧問弁護士だった。
第二次世界大戦で日本人と米国人が戦争で殺し合う、その兵器は日米両方ともブッシュ一族が製造し、殺し合えば殺し合う程、ブッシュ一族に大金が転がり込む仕組みになっていた。
日本との戦争を開始したルーズベルト大統領の大統領選挙資金は、バーナート・バルークが大部分出資し、バルークがルーズベルトの閣僚人事の全てを単独で決定していた。この「ルーズベルト政権の独裁者」バルークは、ブッシュのハリマン銀行の社員であった。
日本への鉄輸出を禁止し、他の業者を排除し、日本への軍事用鉄鋼輸出の独占体制を作ったのがブッシュであり、その実働部隊がブルームである。
このブルームの弟子・麻生太郎が、2007現在の日本の次期首相候補である。
戦争が誰の自作自演であるか明らかである。
ブルームが日本軍に納入した兵器、軍事物資の代金は、日本政府直属の麻薬密売人、里見甫(はじめ)が全額支払っていた。日本が中国に侵略し建国した満州帝国で麻薬密売を担当し、日本の戦争資金を作っていたのが里見であった。
ブルームがブッシュの命令で日本軍に兵器を運び込み、里見が支払う。里見はブッシュ=CIA=ブルームのパートナーであった。
米国との戦争を開始した日本の東条英機内閣。その東条が総理大臣となった時の選挙資金を出していたのが、ブッシュのパートナー里見であった。
日本と戦争を始めたルーズベルトの大統領選挙資金を出していたのもブッシュ一族であった。戦争で日米に兵器を売り「金儲け」したのもブッシュであった。
戦争が誰の自作自演であるか、極めて明確に出ている。
1840年、アヘン戦争で英国が勝利すると、中国での麻薬売買が急速に拡大する。この麻薬密売を担当したのが青パンと呼ばれる中国マフィアである。不思議な事に、この青パンは麻薬代金を手形で支払っていた。手形は支払期限が来るまで現金に出来ない。しかしインド等から麻薬を密輸してきた船舶会社、密輸人は、すぐに手形を現金化して再び出航したい。そこで、この手形を支払期限前に買い取り現金化し、手数料を取る(手形の割引)銀行が必要になる。しかし相手は中国マフィアであり、手形の支払日に中国奥地に逃亡し、または暴力で支払いに抵抗して来る可能性がある。従って、この手形を現金化する銀行は中国マフィアのボスとして中国全土を監視下に置き、マフィアの逃亡を許さず、しかも「力づく」でマフィアに支払いを強制出来る中国マフィアの支配者=帝王でなければその任務は務まらない。この手形銀行がブッシュ一族のハリマン銀行であった。
ブッシュ一族は、中国の闇社会の帝王として君臨する独裁者一族であった。
日本の満州帝国の支配人=資金の元締めである里見は、このブッシュ一族の麻薬ネットワークの一部を担っていた。中国麻薬密売におけるブッシュのパートナー里見。そしてCIA経営者ブッシュの部下ブルーム。この2人が日本軍の軍事力を作り上げていた。
そして里見の麻薬ビジネスのパートナーには、後にイスラエルを建国し、世界最強のスパイ組織モサドを創立するショール・アイゼンベルグがいた。
2007年現在、ブッシュ大統領が「イスラエルを中心に世界を統一する」=NWOニューワールドオーダー=新世界秩序を作ると主張する理由がここにある。
また、里見の部下には右翼の大物で、後に中曽根康弘元首相の総理大臣選挙資金源となる児玉誉士夫がいた。児玉は戦後CIA日本エージェント=工作員となる。従って国鉄を民営化しJRを作った中曽根元首相は、CIAの対日本工作資金で首相になった事になる。
また、児玉は自民党の創立資金を出資した人物であり、自民党がCIAの対日本工作として、CIAの下部組織として創立された事が分かる。
また、里見の麻薬密売組織の部下には、吉田茂(後に自民党総理大臣、2007年現在の外務大臣麻生太郎の祖父)、佐藤栄作(後に自民党総理大臣)、池田勇人(後に自民党総理大臣)、岸信介(後に自民党総理大臣、2007年現在の安倍晋三首相の祖父)がいた。
日本の自民党と歴代総理大臣がCIAの対・日本工作として「作り出され」て来た歴史が、この中国麻薬密売組織の中に明確に浮かび上がって来る。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607677.html
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高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。
「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」
日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。
<中略>
天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。
日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。
娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。
「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」
福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。
<中略>
至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。
<中略>
日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。
1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。
<中略>
片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。
男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。
このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。
片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。
同じ手口を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からアヘンの輸入であった。皇室と三菱は、三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起きる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国はこのアヘンの金でできた。
天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、昭和天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。
1938年12月に興亜院がつくられ、阿片政策を統括した。その翌年から「土薬公司」ができた。日本でもケシ栽培をし、朝鮮に送り込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。
この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。
多くの軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部を貰って遊興にあけくれた。マーク・ゲインは『ニッポン日記』の中で1946年3月28日の出来事を書いている。
「東条が自殺を企てたその家は、岩崎家からの贈物で、東条一家には三菱財閥の情深い当主から現金、株券その他で一千万円の額があるという報道が行なわれた。」
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825

天皇家が味をしめたのは日清戦争であった。この戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円。このうちの二千万円が皇室の財宝となった。天皇家はこの戦争で味をしめた。
1945年8月、敗戦となった。「降伏後における米国の初期の対日方針」の中で、「皇室の財産は占領目的の達成に必要なる如何なる措置においても免除せられることなかるべし」と明記されている。
敗戦後の10月22日、宮内省はGHQにより、四十数項目にわたる報告書を要求された。11月18日、GHQから覚書「皇室財産に関すること」が出た。GHQは生活費を除くすべての皇室財産を凍結するとの指令を出した。
この年、GHQの財務調査官たちは、昭和天皇の個人資産を1億ドル以上と査定した。財務調査官たちは「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」を作成し、マッカーサーの承認を得た。皇室財産も課税計画から除外されないとした。
それでは、1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容をみよう。
「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」
当時の財閥の住友吉左衛門は1億1738万円、三井高広は9628万円。皇室財産は、GHQの公表分であるが日本の財閥の約30倍。しかし、この数字は正確ではない。天皇も、三井も、三菱も、敗戦前にほとんどの金をスイスの秘密銀行に入れたからである。
さて、この皇室財産はその90%が旧憲法のもとで無償没収され、残りの10%は憲法88条の規定により国に属することになった。日本の戦後史を書く学者のほとんどは、皇室財産には触れることがない。井上清がこの程度触れただけである。
では、マーク・ゲインの『ニッポン日記』を見ることにしよう。マーク・ゲインは戦後日本にやってきた記者の一人である。
「ある総司令部の専門家が言った。『天皇の財産は5億ドルから10億ドルの間だろう。このひらきは、我々の到着直前に彼の財産がどれだけ隠匿されたかという我々の知らない、また多分将来も知り得ない事実によって生じるものである」
この、「多分将来も知り得ない事実」について、エドワード・ベアは『裕仁天皇』の中で次のように書いている。
「皇室はこれらの資産の大半を失ったが、SCAPの厳しい監査の目をのがれて、残された資産もいくらかあったようである。敗戦の濃くなった1943年、44年、専門家の助言に従って、海外の仲介人を通じ、日独伊枢軸国に好意的だったスイスやアルゼンチンのようなラテンアメリカ諸国の銀行に資産を移されたとも言われる。1948年7月19日付のSCAPの報告書には、『日本の公的、私的財産は共にSCAPの十分監視の行き届かないラテンアメリカ諸国に流出した』とある。」
あるASADの専門家は、戦時中に総額4100ポンドの皇室財産が大部分、横浜正金銀行を通じて海外に運び出されたと見ている。そのうち、スイスに流れたのは850万ポンド、ラテンアメリカに流れたのは1004万ポンドであった。こうした不明な財産の回収作業を行われないまま、1951年に占領が終結した。
マッカーサーに関する限り、彼は全般にわたって、天皇の海外資産の調査に明らかに弱腰の態度を見せていた。(略)
敗戦直後に宮内省がGHQに報告した皇室財産の総額は約16億円。皇居、御所などの建物のほかに、山林面積は群馬県と栃木県の二県の合計に等しく、農地は奈良県の全耕地面積に匹敵するといわれた。この報告書を見たGHQの係官は、皇室は金銭ギャングの最たるものだと言ったという。」
天皇の財産はどこへ消えたのか。謎は残る。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060826

1947年1月21日、米国統合参謀本部はGHQに、「日本国の賠償金の原資を確保せよ」との命令とともにひとつの文書を送付した。
「皇族あるいは、彼または彼女の資産の受取人名義人は、事実上国会の管轄外に置かれてきた。このため当委員会は、降伏時における、皇室、宮内省、および全皇族ならびにその名義人の比較的価値のない純粋な物品または骨董品を除く所有財産すべての品目の詳細且つ完全な目録(売却方法を含めて)の入手を望むものである。」
さて、私は日本郵船については書いた。
大阪商船の株も皇室は持っていた。この二社の船が、天皇が「火事場泥棒方式」で侵略していった地域へ、物資、機械、人間を運ぶのに使われた。三菱と三井のみならず、住友以下の財閥とも皇室は深く結ばれていた。
また、皇室の銀行支配も徹底していた。皇室は日本銀行の47%の株を持っていた。紙幣を発行するたびに、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた。
日銀の他に注目しなければならないのが、横浜正金銀行である。
「皇室財産が大部分、横浜正金銀行を通じて海外に運び出された」とベアが書いているのは厳然たる事実である。
ポール・マニングは、『米従軍記者が見た昭和天皇』の中で次のように書いている。
「昭和天皇がヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは、日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」
2001年8月13日、共同通信社はスイス政府とスイスの赤十字委員会(ICRC)の1945年8月、終戦直前の公文書を報道した。その内容を記すことにする。簡単にわかりやすく解説する。
終戦直前の8月、昭和天皇の皇后(良子)の名で一千万スイス・フラン(当時と現在のスイス・フランの購買力を単純に比較しても約33億円)の巨額な寄付をするとスイスの赤十字国際委員会(ICRA)に提示した。これに対し、連合国である対日政策決定機関の極東委員会が、この寄付申し込みを受け入れるなと赤十字に通達を出した。しかし、赤十字はこの極東委員会の提案を覆し、1949年5月に秘密裡に送金を受け入れた。この寄付は横浜正金銀行がスイス国立銀行に保有していた「日本の秘密口座」と呼ばれた「特別勘定」から拠出された。皇室はスイスの国立銀行に秘密口座を持っていたし、現在も持っている。どうして天皇が自分の名前でなく皇后名で横浜正金銀行からスイスに送金したかは不明である。
しかし、推測してみよう。2001年の評価額で約33億円の金を赤十字に寄付するということは、赤十字と何らかの秘密取引をしたとしか考えられない。寄付の数十倍ないし数百倍の秘密預金を、赤十字の名前を借りるか、その力添えでスイスの国立銀行の秘密口座に入れたということであろう。
終戦直前の8月7日、東郷茂徳(当時外相)が、赤十字の駐日代表に皇后名で一千万スイス・フランの寄付を申し入れた。赤十字は応じた。しかし、スイス政府は8月16日に英米などとの合意に基づき、日本資産を凍結した。
1949年に赤十字が英米による圧力下の日本資産凍結の圧力を覆し、一千万スイス・フランの寄付を正式に認めたということは、横浜正金銀行の天皇の「秘密口座」の資金の凍結を解除するための努力の見返りであったといえよう。正確な金額は把握できていない。前述のマニングは昭和天皇の秘密資産の一部について次のように書いている。
「天皇はハイテク電子工業とホテルへの適切な投資で得た推定五千万ドルを公認の手持ち資金として個人的に東京で貯蓄することができた。
この投資を可能にしたのが、スイスにある推定30億ドルの秘密資産である。この秘密資産の一部をさまざまな一流企業に融資した天皇は、投資の機会を得て、かなりの額の利益を得たのである。」
<中略>
天皇は(表面的には皇后名であるが)、執拗にこの寄付に力をそそいだものと思われる。この紛争は1946年6月、極東委員会と連合国軍総司令部(GHQ)にゆだねられた。極東委員会はこの年の10月、「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定した。マッカーサーの決定ですべてが終わったかにみえた。しかし、赤十字はアメリカの弁護士を雇い、マッカーサーに脅しをかけた。マッカーサーは解任の動きを知る。この問題がからんでいると私は推測する。しかし、今のところ確証はない。
そしてついに極東委員会も、この問題に反対し続けた英国政府も、赤十字の工作に敗北宣言を出した。
<中略>
赤十字は私たちが考えるようなナイチンゲールの世界ではない。国際金融資本、特にユダヤ資本と深く結びついている。彼らは朝鮮戦争を仕掛けるために、天皇が必要だったのではないのか。天皇は彼らの要望に応えると約束したために、秘密資金の凍結を解除されたと推定しても、そう間違った推測とはならないであろう。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060827

「1944年1月、昭和天皇は参謀総長と軍令部総長から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。
木戸は当然のことながら、この指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解したのである。
二番目の状況を達成するには時期尚早だったができた。木戸は皇室の財政顧問でもある主要銀行の経営者たちを招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。東京にある天皇の銀行口座の残高が事実上ゼロになったが、スイスの銀行の番号口座残高が急激に増加したのだった。横浜正金銀行のスイスの支店は次に、天皇の仮名による銀行投資にドイツの信用を付け、天皇の流動資産の換金能力をさらに高めた。他の財閥の大企業経営者たちも天皇の現金の流出に気づき、アフガニスタン、トルコ、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、朝鮮、香港、満州、フランス、ドイツなどに預金していた現金を引き出し、スイスの銀行へ送金した。彼らはまた、ブエノスアイレスにある銀行の法人や個人口座の数も増やしたのである。
占領期間中、日本銀行が横浜正金銀行の業務を引き受けることになり、この結果、皇室財産の財務上の秘密が継続して保証されたのである。」
私が書いた赤十字と天皇の秘密は、このマニングの本で真実であることが理解できよう。
日本赤十字社は、現在でも、皇室が支配的立場にあることを知らねばならない。この赤十字組織が、世界を支配する勢力の一支部なのだ。マニングの本には、天皇がいかに金塊をアルゼンチンに運んだかの詳細な内容も書かれている。
もう少し具体的に、赤十字国際委員会(ICRA、本部ジュネーブ)について書くことにしよう。では、アダム・レポーの『ヒットラーの秘密銀行』から引用する。
「赤十字国際委員会が各国諜報機関から、スパイを潜入させる標的として狙われたのは当然のことだった。大戦中でも枢軸国、連合国を問わず自由に越境して、救援活動ができる国際的組織だったからだ。また、情報収集も任務のひとつで、職員たちは双方の捕虜や軍指導者たちに対する質問権を与えられていた。」
『ヒットラーの秘密銀行』から、もう一つ引用したい。ナチス資産について書かれているが、ドイツの枢軸国日本の姿もみえてくる。
「英米仏三国は1945年8月、スイスに預けられているナチスの資産の所有権を主張するもスイス政府の対応ぶりは相変わらずのものだった。三国の主張はどんな法律を根拠とするものか理解に苦しみ、また連合国によるドイツ占拠の事実は『ドイツ国境を越えて法的効力を持つことはほとんどない』という言い逃れに終始した、とSNBの報告書は記している。
「スイスに預けられたナチス資金」を「スイスに預けられた天皇の秘密資金」と置き換えるならば、私が書いてきたことが事実であることが理解できよう。『ヒットラーの秘密銀行』には、スイスの銀行について書かれている。日本に関係する記事に触れておこう。国際決済銀行(BIS)がスイスにある。この銀行が、ナチスと日本と戦争中も取引を続けた。では引用する。
「BISの総裁はアメリカ人トーマス・マッキトリック、ゼネラル・マネージャーはフランス人ロジェ・オボワン、ゼネラル・マネージャー代理はドイツナチ党員のパウル・ヘクラーだった。大戦中の理事には、ライヒスバンク副総裁で後に戦死とされたエミール・プール、同総裁のヴァンター・フンク、その他ロンドン、ブリュッセル、ローマ、日本から派遣された銀行家たちが顔を揃えていた。(略)ベルリンにとっては好都合なことに、戦時中のBIS総裁は、ナチスの略奪金塊の主要ルートだったスイス国立銀行の総裁エルンスト・ウェーバーだった。(略)第一次世界大戦の敗戦国ドイツが連合国に対して負っていた賠償金をヤング案に基づいて回収することを目的に、数カ国の中央銀行が1930年5月に設立した銀行だったのである。ニューヨーク・ファースト・ナショナル銀行など世界の主要金融機関が共同出資し、これらの国々および日本が理事を送り込んだ。(略)BISの設立資本金は五億スイスフランで、ベルギー国立銀行、イングランド銀行、フランス銀行、ライヒス・バンクという中央銀行五行によって保証されることになった。これに日本の代理を務める日本銀行団、およびモルガン銀行、ファースト・ニューヨーク銀行、ファースト・シカゴ銀行から成る米国銀行団も参加した。」
ここまで書いてきて、戦争というものが、金融と深く結びついていることが理解できたはずである。BISとスイス国立銀行は深く結びついている。私の推測の域を出ないが、
天皇はスイス国立銀行に「皇后名」で、BISに「天皇名または仮名」で、最低二口の秘密口座を持っていたと思われる。マニングの推定「35億ドル」以上ではなかろうか。35億ドルでは少な過ぎる。
<中略>
日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の『神々の軍隊』がでた。この本の中で濱田は天皇の秘密資金に触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。
「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などスイス、バチカン、スウェーデンの銀行などに預けられていた。(略)中でも国際決済銀行、通称“バーゼルクラブ”は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。(略)
内大臣木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和十九年一月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃がすよう指示した。
そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに戦争協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。(略)皇室とバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界の闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない。M資金の闇は深い。」
濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない」には全く賛成できない。私は昭和天皇が戦後も、マニングが書いているように蓄財作戦に熱中していたと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人々を悩ませたのである。
計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的数字がクローズアップされる。
それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」木下道雄(元侍従次長)の『側近日記』が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。
「ところで終戦直後の天皇家の財産は37億5000万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7912億円である。」
この数字の十数倍近くをスイス銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100億円を切っていた。
天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。
天皇の「キリスト教入信」対策は、この二つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。
これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。
それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも、広田弘毅のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060828

天皇一族は売春業者
 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。
英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。
マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。
日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。
しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。
貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。
天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。
天皇一族の財産はこうして作られた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html

日本の天皇家は古代からただひとつの家系がつながってきた。これは世界に類を見ない。また昭和天皇は敗戦の時にマッカーサーに対して、「全ての私財と自分の命をも放棄する。国民を救って欲しい。」と言い、マッカーサーはこれに感動したと学校では習ってきた。
 ところがこれらは全くの創作のおとぎ話であった。私達は米軍の策略にまんまと騙されてきたのだ。
昭和天皇が終戦時に国民を配慮した気配は全くない。ひたすら私財の保全にだけ心血を注いだ。それを米軍は日本支配の道具として位置づけることで国民の洗脳に成功した。
結局、学校教育は米軍の指図による創作だ。さらに右翼などは天皇システムを保護する事で米軍の日本支配に貢献してきたのだ。見事な策略と言うほかは無い。
立ち直る見込みのない、無能そして国賊的日本政府のていたらくは、殺人総合商社アメリカの商売の成功を示すものである。
1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社
日本郵船が創立される。
明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、
欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、
欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。
そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを
公然許可すべき」という指示を天皇に与える。
賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に
「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、
天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。
(福沢諭吉全集 第15巻)
1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い
仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で
大々的に行われた。
日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は
天皇の言葉を信じた。
天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」
日本人女性の数は数十万人。
大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は
「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の
売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。
その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族の
サギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。
その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。
天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性を
だまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。
天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の
売春業者であった。
天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」
された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に
売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。
初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。
これが従軍慰安婦の原型である。
日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、
三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、
全額三菱財閥の出資で建設する。
渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の
新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を
「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する
「売春業参加のお礼」として建設された。
(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。
また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と
協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。
こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が
蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた
米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で
1億ドルを超えると記録されている。
国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、
女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、
ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。
戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で
「無給」で重労働を行っていた。
そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって
戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく
自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。
また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し
略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に
運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」
という巨大な壷に蓄財された。
中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争
は天皇の個人的蓄財のために行われていた。
この問題を調査したエドワード・ベアは、
「天皇一族は金銭ギャングである」
と吐き棄てるように語っている。
(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)
1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は
この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、
海外に蓄財を「逃し」始める。
天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、
スイスに850万ポンド、
ラテンアメリカに1004万ポンド等、
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、
天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した
蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしている。
(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。
広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本を
どのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、
天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金
を繰り返していた。
日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が
日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そして
スイス銀行まで遠路運搬されていた。
中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた
日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されて
いる最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。
天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など
何も考えていない事は明白である。
(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」
マルジュ社)。
なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた
商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の
対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは
何故なのか?
敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が
「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員
であったのか?
天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を
借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、
港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、
莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の
金融ビジネスマンである。
そしてここでも「何故か」CIAと天皇は
「共同経営者」である。
天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を
「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが
虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのも
スイス銀行であった。
天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に
「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族
の蓄財を隠していた。
天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪
ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。
(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 
ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。
1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い
女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が
社会問題化し、それを禁止した法律であった。
天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」
(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の
「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、
1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。
「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、
日本を憤慨させるに十分なものであった。」
この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。
日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇
の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し
米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。
天皇一族は神でも「象徴」でも無く、
人間のクズの集団である。
追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語る
のがジャーナリストの仕事である。
天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の
無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607
1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。
 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。
 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。
実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。 いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。
効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。
 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。
 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。
 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。
 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】
 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)
 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)
 1941年にフィリップ・ペタン内閣は日本がインドシナ半島北部を占領することを認めた。近衛文麿は『交渉による平和』を望んだが裕仁の説得に失敗し、辞意を表明した。宣戦布告の決意をし、天皇は東条将軍を首相に指名した。彼は満州で組織的な略奪を行った岸の一党【原文ではclanつまり悪党集団:訳者】の手下であった。

 パールハーヴァーの『だまし討ち』(6)は、東南アジアにおける日本の好戦性を解き放つシグナルであった。日本はタイ、スマトラ、ビルマに侵攻し、グアムとホンコンをその手にした。さらにマッカーサー将軍をフィリピンの領地から追い出した。新たに付け加えられた領地は憲兵隊によって組織的に略奪された。秩父宮はシンガポールに黄金の百合の総合本部を置いた。専門家たちが目録をつくるためにそこにすべての分捕り品が集められた。
 フィリピンでは欧米の銀行が黄金の百合のエキスパートたちの第一目標であったが、彼らはフィリピンの財宝を奪い取って、筆頭株主が裕仁その人である横浜正金銀行【原文は英語Yokohama Specie Bank:訳者】、台湾銀行、そして他の国有銀行の財産にしたのである。その黄金の一部は戦争の経費に充てられた。スイス、ポルトガル、アルゼンチン、そしてチリの銀行が洗浄に使われた。
 憲兵隊と黄金の百合の実行者たちが奪った富はシンガポールの集中させられ、最終目的地である日本に輸送されるためにマニラに運ばれた。
[黄金の百合からブラックホールの資金へ]
ミッドウエイの戦いの後、東南アジアにおける軍事的な力関係は米国に有利に傾いた。日本は海上輸送の支配権を失った。裕仁と帝国の第一人者たちは帝国の敗北を予想し始めた。
 それ以来、公式には富士山麓で結核療養中であることになっていた秩父宮に率いられてきた黄金の百合作戦は、マニラで足止めを食らっている戦争の分捕り品を救うことに必死になった。秩父宮はまず病院船を使って金を輸送し、その後その金を日本の山地に作られた地下壕に溜め込んだ。
1943年には、米国が効果的な海上封鎖体制を確立したため、そのような方法は取れなくなった。財宝はマニラの波止場で山のようになりだした。秩父宮はそこで地下壕建設のための特殊な技師の集団を作り、分捕り品を地下に隠す作業を始めた。マニラではかつてスペインの町であったイントラムロスの地下が使用され、巨大な収容能力を持つ場所を提供できた。
 品物を慎重に移送できる一つの通路が波止場とイントラムロスの間を直接に結びつけた。秩父宮は歴史的な場所や教会、大学など、爆撃がほとんど無いあらゆる場所をつなぐように選んでいった。
 マニラの北で竹田宮が洞窟を使って地下壕の網の建設を監督した。専門家たちが恐ろしいほど効果的な大量のワナの兵器を仕掛けた。爆発物、毒ガスのカプセル、水や砂を使ったワ

ワナ。南京虐殺の実行者の息子であるもう一人の皇族の朝香宮孚彦【原文ではTakahitoとなっているが「たかひこ」の誤り:訳者】親王と、シンガポールのヒーローであり差し迫った米軍の攻撃に立ち向かうためにフィリピンに派遣された山下将軍が、この地下での作戦に加わった。技師たちと奴隷たちは組織的に生きながら地下に埋められた。
 マッカーサーがフィリピンを再征服し始めたとき、皇族たちは急いで未だ地下に入れることができなかった財宝を隠そうとした。黄金を積んだ船が船員を乗せたまま沈没させられた。日本の敗戦はマニラ市民の虐殺と占領を終わらせたが、その後に皇族たちは潜水艦で逃亡した。

 1945年から米国の諜報機関が黄金の百合の存在に気付いた。諜報員であるジョン・バリンジャー(John Ballinger)は、漁民に変装して黄金をいっぱいに入れた箱が病院船に積み込まれるのを観察することができた。マッカーサーは彼のライバルである山下を逮捕し、彼の腹心をこの日本の将軍のお抱え運転手である小島老人に対する尋問官とした。
そのセベリノ・ガルシア・サンタ・ロマナは山下の行動に関する膨大な情報を手に入れ、隠匿場所の正確な数をつきとめることができた。『サンティ』【サンタ・ロマナの別称と思われる:訳者】はこうして『山下の財宝』の守り手となった。彼は、OSSの元局員であり最近までウイロウビィ(Willoughby)将軍(8)の特務機関G-2と協力していた謎の男エドワード・ランドセイル(Edward Landsale)(7)が作戦の指揮をとるまでは、ずっとマッカーサーの命令の下にとどまった。
 トルーマン大統領にこの件が任されて以来、掘り出された分捕り品はブラック・ホールと呼ばれる対共産主義の戦いの資金として使用されることになった。あるロウズベルトの顧問に認知されたこの計画は、ドイツ、イタリア、日本によって盗まれた黄金を親米政権の財源として使い、次に、『危険なアカ』の脅威にさらされる多くの『民主国家』の深奥でこの資金により選挙を操作することから成り立っていた。
 ロバート・アンダーソンの助けを受けてあるスペシャリストが資金を洗浄した。サンティが探し出した黄金は42カ国の170の口座に納められた。CIAの銀行口座ネットは、東南アジアから盗まれた富を隠し、金の値段を米国の経済的利益にとって都合の良いあるレベルで維持することを可能にした。(9)
財産は日本に戻ってくる
 米国当局によって押収された分捕り品は当初3つの異なった財源を潤した。四谷資金は、マッカーサーの秘密の右腕であるG-2の長官チャールズ・ウイロウビィの活動を支えた。彼はフランコ将軍とファシスト警察の手法の賛美者である。第2の資金は、日本におけるニュルンベルグ裁判に匹敵する東京裁判の判事ジョセフ・ケーナンの名前が付けられたのだが、非常に明確な機能を持っていた。共産主義に対するマッカーサーの戦いの同盟者へと変身した帝国のメンバーを免責するために証人たちを買収することだった。
東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。
 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。最も戦略的な資金は、疑いも無くM資金である。それは日本で共産主義者や社会主義者が権力を握ることを妨げる戦いのために運用された。戦後、つかの間の社会主義政権は、M資金投下のおかげで米国好みの吉田茂によって、失墜させられたようである。この資金は敗戦日本の公式な歴史に出資するためにも利用された。

 児玉誉士夫が「私は敗北した」という文章を出版したのはこれである。この本は、CIAを通してM資金をつぎ込まれたものであるが、笹川良一や岸信介などの将来の日本の大物、つまりマッカーサーによって称揚された国粋主義者たちを免責するのに役立った。
 1951年に講和条約が締結された。その第14条で、日本はその犠牲者に対して補償するための必要な手段を整える必要のないことが規定された。ブラックホールへと転換された黄金の百合は秘密のままにしておかねばならなかった。
 1952年以来、CIAと日本の特務機関に率いられた一つの組織がM資金を担当した。この資金は、満州での略奪の責任者であり東条の戦争内閣の閣僚であった岸信介の首相選出を許した。アイゼンハワー政府はこの極端な反共主義者である戦犯を好んだ。
 M資金は、田中角栄、竹下登、中曽根康弘、宮沢喜一などの多くの首相に財源を提供した。田中は、ニクソンがM資金の引出権を彼に約束したのだが、これを選挙資金と汚い工作のために頻繁に運用した。
 黄金の百合の一部は日本でこのように投資され、自由民主党の母胎から誰が将来の首相になるのかを決める者たちによって浪費させられた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html

日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、占領地の宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。そして一般人からも奪った。
一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.
どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。しかし、これは偽情報である。
 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。
日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。
日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?
 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。読者がお気づきのように、これは真実ではない。天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。

 日本はひどく痛めつけられ、戦争が終わったときには、かろうじてどうにか食っていける状態だったと、わたしたちは告げられる。事実は、驚くほど少ない工場と住宅しか破壊されておらず、それもひどい損傷を受けていなかった。そして、インフラストラクチャーの損害はわずかだった。広く世間に知られている損害のほとんどは、普通の日本人が住んでいた数百万軒の紙と木でできたマッチ箱のような家だった。彼らの苦悩は大君主たちの見解には加えられていなかった。

 日本を共産主義に対する防波堤にしようという切迫した必要性に取り憑かれていたので、ワシントンは戦時の指導者たちと皇室のメンバーと金融のエリートたちが、十二のアジアの国々を破壊し、窮乏状態に陥れたことに関して、いかなる責任からも免責した。
わずかに日本の戦争中のエリートたちがスケープゴートとして死刑に処せられた。幾人かは指導者たちの安らぎのために、責めを負って強制されたり、濡れ衣を着せられた。戦後の占領の終わりの頃には、すべての日本の戦犯は自由の身になった。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


日本の昭和天皇ヒロヒトは、敵国であった米国の兵器を日本に輸入し日本軍部に売り付け、その利益を私的に「着服」し、スイス銀行に隠し蓄財していた。そのスイス銀行の口座はヒトラーと天皇ヒロヒトの「共同名義」の口座であった。

 ヒトラーと昭和天皇ヒロヒトは、戦争を起こし兵器を密売し、共に「私腹を太らせていた」。

ディロン社の代理人として、米国製兵器の密売を行っていたのが昭和天皇ヒロヒトである。ドイツにおけるヒトラー、日本における昭和天皇ヒロヒトの役割は同一であり、従って兵器密売のスイス銀行の「決済口座」がヒトラーと昭和天皇ヒロヒトの「共同名義」になっていた。
 第二次世界大戦末期、ヒトラーは自分の資産と部下を続々とアルゼンチンに逃し始める。天皇ヒロヒトも戦争末期、長年の武器密売の利益を金塊の形で、アルゼンチンの銀行に大量に密かに輸送し隠し預け始める。
 戦争末期、中国に残された日本人の多くは、日本に帰る船が無く中国、朝鮮で殺害され、女性は強姦され殺害され続けていた。天皇はその日本人を全員「見殺し」にし、船舶を「独占」し、武器密売の利益を金塊の形でアルゼンチンへ大量輸送し続けた。
http://alternativereport1.seesaa.net/

1945年.日本の敗戦が決定的になると.天皇一族は.この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ.海外に蓄財を「逃し」始める。
天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて.スイスに850万ポンド.ラテンアメリカに1004万ポンド等.広島.長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中.天皇は自分の蓄財を海外に次々と.逃がす事に専念する。
この問題を調査したマーク・ゲインは.海外に天皇が逃した蓄財は.累計で5~10億ドルに上る.としている(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。
広島.長崎に原爆が落とされ.膨大な死傷者が出.戦後.日本を.どのように再出発させるか.を考えなくてはならない時期に.天皇は.ひたすら自分の蓄財を守るため.数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。
日銀の地下金庫からは.莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され.アルゼンチンの銀行.そしてスイス銀行まで遠路.運搬されていた。中国では.日本に逃げ戻るための船舶が無く.逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数.強姦殺人され.子供が殺害されている最中.天皇は貴重な船舶を独占し.自分の金塊を遠路.アルゼンチン.スイス等に運び出していた。
天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く.日本人の事など.何も考えていない事は.明白である(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」 マルジュ社)。
 なお.天皇が.第2次大戦中.「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の.天皇の共同経営者が.CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは.何故なのか?
敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?
 天皇は戦後.このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り.CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に.港区の不動産を次々に買収し.またハイテク産業に投資し.莫大な蓄財を.さらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく.単なる金儲け主義の.金融ビジネスマンである。
そして.ここでも.「何故か」.CIAと天皇は「共同経営者」である。

 天皇は.1940年代初頭から.スイス銀行に少しづつ蓄財を「移し」始めるが.ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが.虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。
天皇はヒトラーに請願し.ナチス・ヒトラーの口座の中に.「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい.そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇と.ヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する.略奪ビジネスのパートナーであり.ナチスと天皇は一体であった(アダム・レボー「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ・・また.濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。
 1924年.米国は「排日移民法」という法律を成立させる。日米関係は.まだ険悪ではなく.日本から.余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し.それを禁止した法律であった。

 天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の.「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に.1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。
「米国のカリフォルニア州への移民拒否については日本を憤慨させるに十分なものであった。」
 この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。
日本人女性を.だまし.売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した.それに憤慨.激怒し.米国と戦争を始めた.と天皇自身が独白しているのである。
天皇一族は.神でも.「象徴」でも無く.人間のクズの集団である。
http://alternativereport1.seesaa.net/
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金の亡者だった昭和天皇(?)の誤算は,中国の正規軍がいくら弱くても,ゲリラには勝てそうもないという事だった. 今のイラクやアフガニスタンと同じですね.

そのまま行ったらソ連が参戦してきて日本は占領されてしまう.
そして,昭和天皇(?)が中国での大虐殺の黒幕だったことが明らかにされ,戦犯として死刑になり,その汚名は世界中で何千年も語り継がれる事になる.

そこで昭和天皇(?)が考えた起死回生の名案とは:

アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。
だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。
国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。
米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。
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アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」
日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。
すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。
戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。
三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。
だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm

対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。
しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。
ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。
日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。
あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。
アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。
アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。
「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。
それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。
国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。
マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。
「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。
占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。
そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。
米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。
戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.
天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった
そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。
 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm

1945年、第二次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来る。
今後の日本をどうするか、米軍の指揮官ダグラス・マッカーサーとの交渉を担当したのが、当時の大蔵省事務次官池田勇人(後に首相)の部下、渡辺武であった。
渡辺の自伝である「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」(東洋経済新報社)によると、渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は、米国の銀行ディロン・リードに
対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。
明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。
しかも奇妙な事に、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに貸し付けた側の銀行ディロンの社長が、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に
戦争資金を貸し付けていた。
ディロンの親会社が、現在のブッシュ大統領一族の経営する軍事産業専門投資会社カーライルであり、そのブッシュの経営するハリマン銀行の取締役ロバート・ ラヴェットが、戦争省次官として自分の経営する兵器会社から米軍に武器を納入していた。米軍の兵器と日本軍の兵器購入資金は、同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。
日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。
この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、日本側に天皇が居た。
ドレーパーの銀行ディロンは、戦争で莫大な利益を得た。
天皇も日本軍の兵器購入資金の一部を私物化し、スイス銀行に莫大な財産を蓄積した。天皇が戦争責任を問われなかったのは当然である。
日本人と米国人に「殺し合い」を行わせ金儲けする、ディロン=ハリマン銀行の日本支店長が天皇であった。最初から天皇は「日本と日本人の命」を「敵国に売り渡して」いた。
なお天皇は、スイスに莫大な蓄財が出来た感謝の印に、「敵国の戦争指揮官」ドレーパーに勲一等瑞宝章を与え表彰している。
http://www.asyura2.com/07/senkyo38/msg/517.html

カーママン社は、カーママンと昭和天皇ヒロヒトが共同で設立した兵器商社である。
天皇はこの商社を通じ、日本軍の使用する兵器を敵国・米国から密輸し、その販売利益を「天皇個人の財産」として、スイス銀行の口座に密かに蓄財し続けていた。
 天皇はディロン社の日本代理人であり、第二次世界大戦の武器密売で利益を蓄積した武器密売人であった。
 天皇と同じ会社ディロンで「働く」カーママン。商社カーママン社を天皇と共同経営する「天皇の同僚」カーママンが、広島、長崎へ投下された原爆の製造担当者であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/59498275.html

あなたは昭和天皇とマッカーサーが、二人だけで11回も会見した歴史的事実を知っていたか。
  しかも、1947年に新憲法が施行され、天皇が象徴天皇となり、一切の政治に関与しないとされた後も、何度もマッカーサーと会って日本の戦後を規定する安保体制をマッカーサーに頼み込んでいた事を。
  私は知らなかった。
  少なくとも豊下楢彦氏の「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交ー」(岩波新書、1996年12月発刊)を読むまでは。
  その著書は、部分的にしか公表されていない昭和天皇とマッカーサーの会見記録を丹念に読み解いて、一つの仮説を立てている。
  すなわち、当時の吉田首相と外務官僚たちが必死になって安保条約を「五分五分の論理」で対等のものにしようと粘り強く交渉していた時に、その一方で昭和天皇がマッカーサーと二人だけで会談し、日本をソ連共産主義の脅威から守って欲しいと直訴する二重外交が行なわれていたのではないか、という推論を、当時京都大学の助教授であった国際政治学者の豊下楢彦はその著書で展開したのだ。
  昭和天皇の戦争責任を語る時、我々はマッカーサー回顧録で明かされている昭和天皇のお言葉を通説として信じてきた。
 「すべての責任は私にある、私の一身はどうなってもいい・・・」と言う例のお言葉である。
 そしてそれに感動したマッカーサーが、天皇の免責を信じたと言う事になっている。
 しかし、豊下の仮説は、それを根本的に覆すものである。
 だからこそ世の中に受け入れられる事はない。
 それどころか、作為的に目立たないものにされてきた。
 その豊下が、この7月に岩波現代文庫から「昭和天皇・マッカーサー会見」と題する著書を出した。
 私はそれを早速読了した。
 そして唸ってしまった。豊下の推論がさらに精緻に組み立てられていたのだ。
  豊下が前掲の「安保条約の成立」を世に発表した96年から12年の年月が経った。
  その間に、彼の研究は更に深められた。
  しかもその間に富田宮内庁長官の日記の公表などという新たな資料も出てきた。
  そして何よりも安保体制そのものが、いまや日本をソ連共産主義から守る事から離れ、米国の戦争に追従する足かせのごとくなりつつある時代の変遷がある。
  米軍駐留に基づいた安保体制の構築は、なによりもまず天皇制の防衛のためであった、その意味で安保体制こそ戦後日本のあたらな「国体」であった、と、豊下はその「はしがき」で言う。
http://www.asyura2.com/08/senkyo52/msg/257.html

マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

天皇は
① 「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
②「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、
というものである。 ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。 イギリス人スターリング・シーグレツプは『The Yamato Dynasty』の「第十章、汚れた手」の中で、

「敗戦直前、昭和天皇の側近たちがひそかにスイス銀行に財産を隠匿した」
と述べている。じじつ、 横浜正金銀行の株式の二二%はヒロヒトの名義であった。
かれはいう。
「膨大な戦利品の一部は潜水艦によって南米に運ばれ、スイス銀行ブエノスアイレス支店から入金された……
マッカーサーはこのことを知っていたが敢えて知らないふりをした。計算するとその財産は四千億ドルであった」と。
マッカーサーが承知して知らないふりをしたというのは汚職である。
ヒロヒトがマッカーサーを買収したという噂の真偽は、今となっては調べようがないが、火の無いところに煙は立たないという。
_______________________________________________________________________________

秘密は墓場まで____最後まで名優であり続けた昭和天皇_迫真の演技
昭和天皇の変わり身の素早さには驚かされる。
つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。
天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。
戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。
 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。
天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

私の調べた確証から浮かび上がる昭和天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。
私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。
昭和天皇は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。
公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

戦争後の四年間、昭和天皇は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、昭和天皇は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。
その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。
天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、昭和天皇の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm

終戦後、昭和天皇は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、
わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。
昭和天皇は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。
何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。
戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった昭和天皇が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。
 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0

ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。
「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。
私は裕仁を子供の頃から存じている。
彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

 


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やはり籠池夫妻の裁判は異常。安倍に逆らったらこうなるとの見せしめである。
マスコミは一切取り上げなかったが、外国人記者クラブで籠池夫妻が今回裁判での検察の求刑にたいして初めて公式な場で自分の意見を述べ、質問に答えた。全部、聞いたがかなり安倍夫妻にとってはかな想像以上の過酷な仕打ちである。

籠池氏は、どうして私だけでなく完全に無実である妻まで懲役7年を求刑されたのか。それは私の妻が安倍昭恵夫人と友だちで仲が良かったからですと述べた。安倍氏に逆らったらこれ程酷い仕打ちを受けるのだというみせしめであると述べた。元文科省次官の前川氏もそうだが、安倍に逆らうと国が寄ってたかって潰しにかかる。裁判の中では、検事は我が物顔で裁判官の制止にも関わらず弁論したり滅茶苦茶やり放題だったと述べた。

また、籠池氏は 「検察官は安倍さんの配下です 日本では、三権分立はできておりません。 法務大臣も、最高検察庁の長官も 最高裁判所の長官も全て 内閣総理大臣の任命によります。全て安倍首相の思う通りに動いている。私がここで申し上げたかったのは 300日間の不当勾留があったこと。長さも異常だが、自分たちは黙秘をしたが、特に諄子夫人は酷い仕打ちを集中的に受けたと述べた。独房に入れられて、壁に向かって正座させられて動くことも許されなかったと述べた。関係の無い娘の自宅なども隈なく捜査された。また、未だに銀行口座も開設出来ない状態に放置されているとも述べた。

森友学園の中に当時の政府関係者、業者との一連の記録された資料、音声録音は、未だに返却されない。
裁判に証拠として、設計会社、建築会社は籠池氏と打ち合わせの当初から隠し録音をし、自分たちの都合の悪いとことは消して証拠として裁判所に出した。証拠を出す代わりに自分たちの罪は免罪してもらうように検察と司法取引をした。この時点ではまだ司法取引の法律は成立していないのに。またこれらの会社は国土交通省の認可の配下にあり、逆らうことは出来ないように籠池不利な証言をさせたと述べた。

また、ぎくりとする話だが、籠池氏は「不正選挙」についても話した。今、全国の選挙開票機械には「ムサシ」が使われている。このムサシについてはネット社会では、この機械を使って不正が行われていると数多くの記事が出ている。開票機械のプログラムを操作すれば、特定者の票は如何様にも増減出来るというものだ。そのムサシを作っている会社の筆頭株主が「安倍晋三」であると述べた。これには竹中平蔵氏が関わっていると述べた。投票したのに開票後「0票」という結果が、多々報告されている。日本はかつてのカンボジア(ポルポト政権)レベルにまで落ちている。 「わが国の選挙では暗黒的な開票が行われている。国連にでも監視に来て頂きたい。この事実を是非報道してほしいと述べた。


極め付きは、オリンピック招致で日本は安全と言って招致したが、東京もまだ汚染させており、オリンピックは返上すべきだとも述べた。









少々というか、かなり長めの長文御免! 
自分で褒めちぎるのもなんだが、誰も褒めてくれないので言わざるを得ない。本稿は力作であり、これほど論理的で緻密な歴史の闇を暴いた論考は見たことがない。その理由は、見ないようにしてきたからである。で、本稿はいろいろな人たちに不都合な事実がてんこ盛りなので、削除さる可能性が高く、保存しておくことをお勧めする。リンクフリーであるが、リンク切れとなる可能性が高い。
ここ数年、2012衆院選以降の政治状況・背景を探り続け、メディアや政治の裏側に隠されていたものが見えてきた。それらの全ては、国民が是非とも知っておかなければならない事実である。表現が露骨で申し訳ないが、もはや「救う会」は、
_ 拉致問題を利用して日米朝の軍事産業の拡大を目指す会に「巣食う会」_______であり、
_ 晋三の実の叔母が拉致問題を利用して不正選挙の安倍政権を「徹底擁護」する会___である、
と断ぜざるを得ない。いずれにせよ、アベ自民党=日本会議=統一教会=半島勢力=電通・パチンコ・パソナ=嘘だらけの背徳集団であり、もはや「救う会」もオウムと同じくカルト指定すべき団体である。下記に引用したが、大変な事実が隠されているようだ。そして、安倍総理・安倍内閣の矛盾だらけの対応が「矛盾なく」説明できる。驚きのあまり、腰を抜かさないでいただきたい。内容の柱は以下のように構成している。興味のある所から読んでいただきたい。
1、 金貸しは国家を相手に金を貸し、戦争をけしかける ~ 歴史の通説は虚構である ~
2、ミサイル危機は、日米(CIA)朝による軍産のための「ミサイル詐欺」である
3、北朝鮮は旧日本軍の残地国家、「横田めぐみは、正恩将軍の生母であり西太后生」である
4、横田夫妻は西太后となった娘とご対面! 今後も益々張り切って「岸壁の母」を演ずる!?
5、虚説に満ちた情報操作と日本の支配構造__贋作民主主義(疑似民主主義・民主化詐欺)
____________________________________________
1、金貸しは国家を相手に金を貸し、戦争をけしかける ~ 歴史の通説は虚構である ~
ロシア革命が実はユダヤ資本によるユダヤ国家の建設だったのであり、アンネの日記が児童向けフィクションであり、敵同士であったナチスと米国資本が裏側で手を握っていたことは歴史の闇に閉ざされている。学校で教える歴史、メディアから繰り返し流布される歴史の通説は嘘の上塗りであり、でっちあげられたフィクションである。もちろん、明治維新も昭和天皇に関する通説も、である。
1-1>ロシア革命の真相 https://sites.google.com/site/uranenpyou/home/russian-revolution
1917年、ロシアでボルシェビキ革命が起き、帝政ロシアのロマノフ王朝が倒れ、ソビエト連邦が誕生する。革命を主導したレーニンやトロツキーに資金提供したのがブンド(ユダヤ人労働総同盟)とジェイコブ・シフやポール・ウォーバーグなどの国際銀行家であった。レーニンは1918年から1922年までの4年間に4億5000万ドルをクーン・ローブ商会に返済している。・・・
共産党幹部達は、ロシア名を付けていても、本当はユダヤ人だった。
[ソ連高級委員のユダヤ人のロシア名と本名]
レーニン⇒ウリヤーノフ、トロツキー⇒ ブロンシュタイン、カーメネフ⇒ ローゼンフェルト
ジノビエフ ⇒ アプヘルバウム、メシュコフスキー ⇒ ゴールドバーグ・・・
1-2> プーチンもビックリ!Russian President Vladimir Putin said that at least 80 percent of the members of the first Soviet government were Jewish.
http://www.jpost.com/Jewish-World/Jewish-News/Putin-First-Soviet-government-was-mostly-Jewish-317150
1-3>ブッシュとナチスの結託 政府公文書で確証http://cybervisionz.jugem.jp/?eid=50
~911事件以降 イラク(中東)に於いて "自由・解放"の名の下に殺戮を繰り返す米ブッシュ大統領の家系は、第二次大戦当時 祖父のプレスコット・ブッシュによってナチス・ヒットラーとの関係により財を成してきた家系であることが政府公文書で確証されている。
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2、ミサイル危機は、日米(CIA)朝による軍産のための「ミサイル詐欺」である
既に明らかなように、北のミサイル部品の殆どが日本製であり、船で北朝鮮へ運ばれてきた。さらに、米軍・横田基地と平壌を繋ぐ直行便まである。つまるところミサイル危機とは日米の軍産と北朝鮮が仕組んだヤラセである。だから安倍政権がピンチの時に安倍総理が官邸に泊まり、翌朝にミサイルが打ち上げられてJアラート詐欺が発動され、安倍政権への批判が緩和される。そしてミサイル危機を理由に防衛費が増額され、日米軍産と安倍の兄が勤める三菱商事などの商社が潤ってきた。そして原発は無防備のままである。このような「ヤラセのミサイル危機」は、何としてでも秘密にしておかなければならないのである。(1、2)
だからこそ「圧力・圧力・圧力!」と連呼して日朝間の緊張を維持し、人殺し軍産と距離を置くトランプの米朝会談を否定し続けてきたのである。もしかするとミサイルはM菱重工製で、地下核実験も日本の兵器産業が絡んでいるかも? まさかとは思うが自衛隊員の戦死を隠蔽している安倍内閣だから、絶対に無い!とは言い切れない。しかも、朝鮮へ送金されるパチンコ産業を温存したままで・・・。つまり、まさに、アホである。(3、4)
しかしトランプは、来日の折に敢えて横田基地に飛来した。その意味は「今後2度とミサイル詐欺はやらせない!」と言う意思表示だったのかもしれない。また「日本は、武士道精神を発揮し、自分でミサイルと打ち落とせ」との発言も、それと通ずるのではないか。
2-1>[朝鮮]北朝鮮ミサイルは準日本製?~決議案を厳しく守るべきなのは実は提案国日本自身だ
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060718/1153228204
・「総連が万景峰号で密輸」 亡命者、米公聴会で証言 【ワシントン20日共同】
米上院政府活動委員会の小委員会は二十日、北朝鮮の麻薬密輸と兵器輸出に関する公聴会を開催、米政府高官や亡命した元北朝鮮高官らが証言した。証人の一人で、北朝鮮の弾道ミサイル開発に携わった元技師は、ミサイル部品が「在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)を通じ(北朝鮮と日本を結ぶ貨客船)万景峰号によって三カ月ごとに運ばれていた」と証言した。
2-2>北朝鮮やらせ問題)北朝鮮VSアメリカ 平壌→横田基地着(在日米軍基地)の航空便があった!(在日米軍問題)http://www.asyura2.com/17/warb20/msg/731.html
2-3>イラク・レジスタンス・レポート 2005年7月8日 金曜 
http://www.geocities.jp/uruknewsjapan/0708-2005_Resistance_Report.html
・・・長時間の日本軍基地攻撃はシーア派の敵意増大を反映・・・
 8日午後2時30分、イラク南部の都市サマワにある日本占領軍の基地に対して、イラク・レジスタンス勢力は強力なロケット弾と迫撃砲弾を見舞った。イスラム・メモのサマワ通信員は、レジスタンスの砲撃は1時間15分ほども続き、施設内にサイレンが鳴り響くなかで、濃い煙がたちのぼるとともに、日本占領軍の基地内ではいくつもの二次爆発が発生した。いわゆる「人道支援イラク日本合同司令部」で通訳として働く基地内の情報筋は、イスラム・メモに対して、この砲撃は日本占領兵にも死傷者を出したが、犠牲者のはっきりした数字を示すことができないと語った。
2-4>2つの海外派遣後56人が自殺の真相~その多くが戦死だった可能性!?
https://ameblo.jp/64152966/entry-12206133125.html
____________________________________________
3、北朝鮮は旧日本軍の残地国家、「横田めぐみは正恩将軍の生母であり西太后生」である
拉致問題に対する安倍政権の姿勢は、「全ての拉致被害者全員が生きて帰国できること」を条件としている。既に死亡しているかもしれない被害者を全員生還させろという要求である。つまり、絶対に不可能な要求を突きつけて「拉致問題を永遠に解決させない」という強い意志が見て取れる。その理由は、拉致問題の裏側に隠された絶対に明かしてはならない秘密があるからである。それは、
その1_北朝鮮は、敗戦時に旧日本軍が残した残地国家であること(下記3-1>から引用)__
・・・しかしかつて石原慎太郎もポロッと漏らした事があり、もちろん最重要国家機密を一手に握っている安倍晋三以下安倍一派もみな知っている事だろう。知っていて知らんぷりして拉致問題・ミサイル発射・水爆実験などと大騒ぎして国民に「北の脅威」を煽っては政権維持、支持率上昇、防衛費増大などにつなげているのだ。何から何まで犯罪的なのが安倍&安倍一派なのである。
旧日本軍の残党が建国しかつ「横田めぐみさんが正恩将軍の生母である国」が、日本や東京を火の海にするはずがないではないか。もし仮に近未来核ミサイルが日本のどこかに着弾したとすれば、東アジア発第3次世界大戦のトリガーを日本に引かせたい米CIAのシナリオだということである。(大場光太郎・記)
その2_拉致された横田めぐみは皇族の血筋であり、金正恩の母親で、現在も健在であること___
__1392年から1910年までの約520年間27代続いた李氏朝鮮。その朝鮮王朝最後の李 垠(り ぎん)皇太子に嫁いだのが元日本の皇族(梨本宮方子女王)である李 方子(り まさこ)皇太子妃である。
・李氏朝鮮:李 垠(り ぎん)+李 方子(り まさこ) 元日本の皇族(梨本宮方子女王)
・李 方子→(息子)李晋(安倍晋太郎)、(娘)横田早紀江→(娘)横田めぐみ→(息子)金正恩
・李晋(安倍晋太郎)+岸洋子(他で信子と記載したものを訂正する)
→寛信(三菱商事)・李晋三(安倍晋三)・安倍信夫(政治家・岸家へ養子)。
__この2つである。(1,2)
従って、安倍晋太郎・横田早紀江は兄弟であり、早紀江は安倍晋三(李晋三)の叔母に当たり、李晋三は李氏の29代目に当たる。3>には写真もあり、筋が通っていて説得力がある。しかも、周知のように三菱財閥は古くから天皇家と姻戚関係を結んでおり、「安倍も麻生も天皇家と姻戚」にある。(3)
それにしても、あのロクデナシが天皇家の姻戚であり、李王朝の29代目だという驚天動地の情報である! そして、アミ・ナイレポートを強硬に推し進めてきたのが天皇の姻戚である「晋ちゃん」であり、アミ・ナイ/レポートのアミさん、戦争のアウトソーシング(外注)を制度化したラムズさんに勲章を授与したのが、安倍内閣・宮内庁・平成天皇である。(4)
3-1>【水爆実験大騒ぎ安倍政権の茶番】横田めぐみは、朝鮮の李王朝と天皇家の後継者として計画的に拉致され金正恩の母親となった!?
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-4ecd.html
3-2>安倍晋三は 李晋三である
http://www.asyura2.com/18/senkyo243/msg/850.html#c8
3-3>天皇ファミリーと日本の政治癒着が凄すぎワロタwww 安倍晋三と三菱財閥
_リンク先「塩崎潤」の写真は間違い。写真の人物は、原発事故・国会事故調で活躍した黒川清だろう。
https://matome.naver.jp/odai/2138003103465347501?page=2
3-4><絶句>秋の叙勲:旭日大綬章にラムズフェルド元国防長官、アーミテージ元国務副長官など
http://www.asyura2.com/15/senkyo195/msg/903.html
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4、横田夫妻は西太后となった娘とご対面! 今後も益々張り切って「岸壁の母」を演ずる!?
2014年3月、横田夫妻は、めぐみさんの娘のキム・ヘギョン(ウンギョン)さん(26)とモンゴルの首都ウランバートルで面会したと報道された。(1)以前、めぐみさんが北の金正日の妻になったという情報が「てげてげ(飯山一郎)」にあった。氏は、2018年7月20日に急性心不全で死亡。著書「横田めぐみさんと金正恩」という著書があるが、これが命取りになったのかもしれない。
仮に下記4-2>の情報がホントなら、めぐみさんは金孫の母となって「北朝鮮・西太后」の地位を手にしており、悲しむべき拉致被害者家族であるはずの横田滋氏による__異様な「ニコニコ記者会見」__も納得のいく「ヤラセ岸壁の父母・劇場」である。が、早紀江氏は、西太后となった娘と甥の「李 晋三」のウソを守るべく迫真の演技を続けている、と言うことになる。
つまるところ、20世紀でやっていたヒトラーとブッシュの戦争詐欺と類似の日朝戦争詐欺・ミサイル詐欺・拉致詐欺などが21世紀の現在も続いているということである。このように考えれば全てが矛盾なく説明できる。この際、「西太后 めぐみ」は顔見世でメッセージを出すべきであり、その瞬間に拉致問題は殆どが解決である。
4-1>横田夫妻 めぐみさん娘と初面会 モンゴルで10~14日 2014.3.17 11:25
http://www.sankeibiz.jp/express/news/140317/exc1403171128000-n1.htm
≪全員救出のため今後も戦う≫ 北朝鮮に拉致された横田めぐみさん=拉致当時(13)=の父、滋さん(81)と母、早紀江さん(78)が3月10~14日、めぐみさんの娘のキム・ヘギョン(ウンギョン)さん(26)とモンゴルの首都ウランバートルで初めて面会した。外務省が16日に発表した。 政府関係者によると、面会には日朝両国の政府関係者も同行した。北朝鮮側は面会で「めぐみさんは亡くなった」と従来の主張を繰り返したという。別の関係者によると、めぐみさんの夫で韓国人拉致被害者の金英男(キム・ヨンナム)氏は出席しなかったとされる。
 横田さん夫妻は16日、文書で「対面は、本当に奇跡的なことで、大きな喜びです。一つのことをきっかけに、全被害者救出のためになることを切望しています」などと心境をつづったコメントを出した。 今回の面会は、(3月)3日の中国・瀋陽での日朝赤十字会談に伴う非公式の政府間協議で、夫妻が高齢になったことなどを理由に日本側が提案し、合意した。・・・
4-2>北朝鮮にいる横田滋、早紀江夫妻の「奇跡的」発言と「安堵感」あふれる表情に込められた真実とは?
https://ameblo.jp/jicchoku/entry-11805000909.html
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-4ecd.html
◆〔特別情報①〕
北朝鮮による日本人拉致被害者の横田めぐみさん(拉致当時13歳)の父、滋さん(81)と母、早紀江さん(78)が3月24日、東京都千代田区の日本外 国特派員協会で記者会見し、モンゴルの首都ウランバートルにあるモンゴル政府の迎賓館で孫娘の金恩慶(キム・ウンギョン)さん(26)と面会したときの様 子を明かした。夫妻の表情は、実に明るく、笑顔に満ちていた。その「安堵感」あふれる表情は、一体何を意味しているのか? これは世界支配層(主要ファミ リー)筋の情報である。
横田滋さん、早紀江さん夫妻は3月10~14日の間、実質3泊4日の日程でモンゴルの迎賓館2階で、金恩慶と夫、その長女で曾孫(2013年5月に生ま れ10カ月)と初めて面会した。めぐみさんの夫と言われてきた金英男(キム・ヨンナム、韓国人拉致被害者)さんも同席した。
__その後、みんなで3階に上がっていくと、何と、めぐみ(朝鮮名・金恵慶=キム・ヘギョン)
__さんが待っていた。涙の再会である。積もる話は、尽きない。みんなで集合写真も撮ったという。
__この場には、日赤の田坂治・国際部長、朝鮮赤十字会の李虎林事務総長、外務省の小野啓一
__北東アジア課長、北朝鮮外務省の劉成日課長(日本担当)らが同席した。
◆〔特別情報②〕
横田滋さん、早紀江さん夫妻が17日午前11時半から、神奈川県川崎市の自宅近くの集会所で記者会見した際、「夢のような時間が実現した」「本当に奇跡 的な事で大きい喜び」「めぐみの生存への確信は全く揺らいでいません」とコメントした言葉が、そのことを示唆していたのである。
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5、虚説に満ちた情報操作と日本の支配構造__贋作民主主義(疑似民主主義・民主化詐欺)
そもそも歴史の闇をひもとけば、戦勝国が敗戦国である日本にもたらした民主主義は、植民地化を目的とした民主主義の贋作だったのであり(民主化詐欺)、日本に本当の意味の主権は「ない」。その証として、憲法より上位に日米合同委員会が君臨し、占領下と同等の日米地位協定があり、在日米軍が全国主要都市の制空権を握って威圧し、万が一の暴動に備えて制圧訓練を繰り返しているとともに、日本国内の反米分子の情報を把握し、諜報活動を間断なく行っている。
更に、GHQのプレスコード(報道統制)が現在も生き続けており、米国に不都合な人物や売国に逆らう者はポダム読売・悪の電通などのメディアを使ってバッシングを繰り返し、CIAの手先である東京地検特捜部が冤罪に嵌め、或いは裏社会の人間を使って抹殺を繰り返してきた。そんな日本の支配構造は、下図のようになっていると思われる。(1,2)
植民地政策の要(カナメ)は、プロパガンダ目的の洗脳報道、傀儡政権の擁立、そして法と暴力(警察・検察・軍隊・裏社会)である。戦後CIAは、傀儡政権擁立のために自民党に資金を提供し、様々な工作を行いながら選挙に介入(不正選挙)してきたことが明らかになっている。宗主国から見れば、吉田茂・岸信介・中曽根康弘・小泉純一郎・安倍晋三は、傀儡の売国奴政権として植民地体制を確立し、国富を献上し、国民を奴隷の身分へ追いやってきた優秀な売国奴と言えるだろう。(3~6)
そして現在、天皇家・李王朝・日米の戦争財閥・西欧資本が実権を握り、朝鮮電通・国営放送を通じて洗脳を続け、国民を欺き、日本を破壊し、国民を悲惨に追い込んでいる、ということである。この国の民主主義は偽装であり、戦前から繋がる支配層が今なお君臨を続けている。
民主主義の肝は、ジャーナリズム活動と公正な選挙である。しかし、選挙の不正にさえ気づかない有権者の国に民主主義はあり得ない。だが沖縄の選挙では、「不正投票監視団」なるものが結成され、活動している。(7)沖縄知事選挙は玉城デニー知事が圧倒的勝利を手にした。是非とも訪米すべきである。沖縄の民主主義は、終わっていない。日本にも希望が残っている。トランプから目が離せない。
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5-1>みんなが知らない「日本の支配構造」
http://rakusen.exblog.jp/iv/detail/?s=22922833&i=201509%2F19%2F00%2Fe0069900_02503226.jpg
5-2>実は今も続く天皇財閥の支配(日銀,日赤,神社だけでなく日本財団,創価学会も)
http://rakusen.exblog.jp/22922833/
5-3>自民党とは、日本を隷属国家にすべくCIAに作られ、米政府隷従DNAを埋め込まれた日本奴隷化装置http://ameblo.jp/utzsugi-rei/entry-11943422801.html
5―4>「外務省が機密解除に反対」CIAの自民政治家へ資金 米元諮問委員が証言、
・・・・西日本新聞 2016年01月06日 03時00分
http://blog.livedoor.jp/mikagetarou/archives/10911075.html
5-5>日本の中のCIAエージェント
~吉田茂、辰巳栄一、緒方竹虎、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎・・・
http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/31b8776d983469bad82ffec40288122b
5-6>CNNによると、アメリカは、過去数十年かにわたり日本の選挙に干渉し続け、米国追随者を勝たせたことを認めました~アメリカが47カ国の選挙に干渉 2017年07月16日18時25分
http://parstoday.com/ja/news/world-i32790
5-7>「 不正投票監視団 」
写真:https://ameblo.jp/nihonkaigi-yachiyo/image-12349172113-14123296357.html
リンクhttps://ameblo.jp/nihonkaigi-yachiyo/entry-12349172113.html
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日本の中のCIAエージェント
2012-10-02 11:20:43 | 資料
日本の政界、財界、マスコミ、学者、評論家、右翼・暴力団などあらゆる分野に張り巡らされたCIAのスパイ・エージェントの数は一体どのくらいになるのであろうか
日本で活動する実行部隊(オペレーション担当)は工作員指揮官として、まず3人の現地工作員の指揮に当たる。そして、工作員はそれぞれ3人の配下(協力者)を抱え、3人の配下もさらに3人の部下を抱える。つまり、1人の指揮官が3×3×3=27人の工作要員を指揮して情報収集などに当たっている。CIAエージェントとされる中には、本人が意識せずにCIAに対して情報提供をする者も含まれる。
外交官や軍人に偽装するOCS(Official Covers)と民間人に偽装するNOCS(Non Official Covers)とに分かれ、それぞれ活動しているというが、最近はNOCSを増やしつつあると分析されている。その理由は、2001年9月11日、米国で起きた同時多発テロが関係する。
 要するに、通常総勢、数百人もの工作要員が活動しているというのである。それが東日本大災害による福島原発の破壊に伴うデーター収集や、混乱に乗じたる各国のスパイの増員により、CIAも当然増員されているものと思われる。ようするに、スパイ防止法すらない日本はまさにスパイ天国というわけである。
★吉田茂
幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。
天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任した。
吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルドの影響を受けていた。
太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁=麻生太郎の祖父。
★辰巳栄一 (1895年1月19日ー1988年2月17日)

コードネーム「POLESTAR―5」

元陸軍中将
戦後の連合軍占領中は旧軍の反共主義工作機関「河辺機関」を率いた。警察予備隊の幹部人選に駐英武官当時からの上司であった吉田茂の腹心として関与。
内閣調査室や後の自衛隊の設置に関わる資料をアメリカ政府に流していた事が2009年10月、有馬哲夫・早稲田大学教授のアメリカ国立公文書記録管理局における機密解除資料調査で確認された。1975年1月から1978年12月まで偕行社会長を務めた。
★緒方竹虎 (1888年1月30日 - 1956年1月28日)

コードネーム「POCAPON(ポカポン)」

ジャーナリスト、政治家。朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。三男の緒方四十郎は元日本銀行理事。

緒方は12月にA級戦犯容疑者指名、1946年8月に公職追放、1947年9月戦犯容疑解除、1951年8月に追放解除となっている。A級戦犯容疑者指名がなければ、敗戦で社内の緒方派と反緒方派の対立が再燃して自らも調停に乗り出し、村山長挙社長が辞任していた朝日新聞社の社長に就任するはずであった。

追放解除の翌年にあたる1952年10月、第25回衆議院議員総選挙で福岡1区(当時)から出馬し、中野正剛の地盤を引き継いだうえに地元財界の支持を得て当選する。

第4次吉田内閣で当選1回ながら、国務大臣兼内閣官房長官、さらに副総理に任命され、翌1953年5月成立の第5次吉田内閣でも副総理に就任した。この政界での急速な階梯昇段の要因には、吉田茂の政治指南役だった古島一雄の紹介や、吉田が重光葵の後任として東久邇宮内閣外務大臣に就任したのが、近衛文麿と緒方の推薦によるものだったことなどが挙げられる。

なお、緒方は政界復帰前の1952年4月、吉田茂、村井順とともに、アメリカのCIA、イギリスのMI5、MI6などを参考にして、内閣総理大臣官房に「調査室」という小さな情報機関を設立した。これが現在の内閣情報調査室の源流である。

緒方は、これとは別に強力な情報機関、いわゆる日本版CIAを新設する構想を持っており、吉田内閣入閣でこの構想は一挙に表舞台に登場したが、国会や外務省、世論の激しい批判を浴び、第5次吉田内閣の下で内調の拡充・強化を図るにとどまった。しかし、このときの緒方の動きを、アメリカCIAは高く評価した。

★岸信介 (1896年11月13日 - 1987年8月7日)

言わずもがなスパイ。岸の『系譜』の政治家は、CIAのスパイである。
政治的に岸は日本の歴代首相のだれよりも右寄りだった。岸は、APACL(アジア人民反共連盟)、MRA(道徳再武装
運動)、統一教会など、右翼組織やCIAのフロント組織に深く関わっていた。

 首相をしりぞいた二年後の1962年9月には、東京で5日間にわたって開催されたAPACLの会合で基調演説を行なっている。また、日本郷友連盟や祖国防衛同士会など、民主主義の粉砕と天皇の政権復帰を擁護する極右団体の顧問もつとめた。
 岸は首相在任中に、日本を訪れたMRAの代表達に次のように挨拶している。「諸君は全世界に対して道徳的バックボーンを与えるようにしておられる。私はMRAが6週間にわたって(1960年5月から6月までの期間)我が国に与えた圧倒的な影響力に対して感謝の気持ちを表明したい」時あたかも、岸打倒を叫ぶ運動がピークに達しており、MRA代表団の訪日のタイミングのよさには目を見張るものがあった。

 岸は日本でもっとも反動的な首相だった。1957年から60年までの短い首相在任中に、岸内閣は史上まれに見る反進歩的な法案を提出した。一つは1958年、警察官の権限を拡大強化する警職法(警察官職務執行法)改正案であり、もう一つは1948年に廃止された紀元節の復活であった。統一教会といえば、CIAの命によりKCIA(韓国中央情報局)が組織し、操る宗教団体であることが後に明らかになった。岸と教会との密接な関係を示す一例として1974年5月、東京の帝国ホテルで開かれた『希望の日』実行委員会主宰の大晩餐会がある。『希望の日』とは、教会の世界的宣伝キャンペーンの一環の集会名だが、同実行委員長が岸信介だった。(『週刊新潮』1974年5月23日号より)>
★ハリー・カーン
ニューズウィークの元編集長。岸信介の英語の教師。ハリー・カーンはGHQの「アメリカ対日協議会」(ACJ)のエージェントだった。ACJはA級戦犯の釈放、公職追放された旧官僚の復職、解体された財閥の復興を仕切ったことで、戦後の日本に「ジャパン・ロビー」ともいうべき組織を作り上げていた。その中心メンバーなのに、その実態は本当に闇に包まれ日本国民には知られていない。日本のニューズウィーク編集部は今でもCIAのたまり場。

★児玉誉士夫 (1911年(2月18日 - 1984年1月17日)

日本の右翼運動家、黒幕、CIAエージェント。
暴力団・錦政会(後の稲川会)や東声会の顧問で、これら反社会勢力はCIAの行動隊。

朝鮮戦争(50年—53年)当時、CIAの前身である米戦略サービス局(OSS)の旧幹部グループは、右翼の児玉誉士夫氏らと組んで、日本の貯蔵庫から数トンのタングステンを米国に密輸、ミサイル強化のためタングステンを必要としていた米国防総省に1000万ドルで売却。これを調べている米メーン大学教授の資料によると、CIAは280万ドルを児玉にその見返りとして提供したという。
アメリカの国立公文書館が公開したCIA・中央情報局の機密文書に記されていたものによると、東西冷戦の初期、CIAは「右翼の大物」と言われ、戦犯の疑いで逮捕されたあと釈放された児玉誉士夫氏や、元陸軍参謀の辻政信氏らと接触し、中国など、共産圏の情報収集活動に当たらせたということだ。 しかし、文書の中でCIAは、こうした試みは、工作資金を持ち逃げされたり、情報をねつ造されるなどしてほとんど役に立たなかったと分析している。特に、児玉氏については「自身の富や権力を得ることが目的で、母国の将来には関心がなかった。諜報員としての価値はないに等しい」と酷評している。

★笹川良一 (1899年5月4日 - 1995年7月18日)

日本の政治運動家、右翼活動家、社会奉仕活動家。CIAエージェント。

★正力松太郎 (1885年4月11日 - 1969年10月9日)

コードネーム「PODAM」
読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍の、コードネーム・スパイ組織暗号名は、「ポハイク POHIKE」
ペンタゴンの資金提供で、日本テレビは創立される。
読売新聞と日本テレビはフル稼働で原子力のイメージアップに努め、CIAは原子力に対する日本の世論を転換させたのは正力の功績だと認めている。
日本の警察官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。長期わたって、CIAエージェント。 正力松太郎や、読売ジャイアンツとの関係で、野球は警察利権。CIAの管轄下にある。

マスコミ操作を通じアメリカが常に「善」であると日本の市民を洗脳し、アメリカを批判する言論をマスコミに「登場」させない。アメリカ映画、音楽を大量に流し、アメリカが「すばらしい」国だと連日宣伝することが目的だとアメリカ国立公文書館 米国政府の心理戦争局の内部文書に書かれている。
★渡辺恒雄
読売新聞経営者。敗戦当時、日本にはテレビ局はNHKしか存在しなかった。米軍は3S作戦実行のため、戦前からのCIAスパイである読売新聞の創立者、正力松太郎とその部下渡辺恒雄(現在の読売新聞・経営者)に「命令」し、CIA直営のテレビ局として日本テレビの創立を命令する。CIAスパイエージェント正力松太郎は、CIAの資金で読売新聞を日本最大の新聞に育て上げるが、戦争中読売新聞は、日本の中国侵略と日米戦争を大々的に「アオッタ」新聞である。日本に中国侵略と日米戦争を行わせる事は、CIA新聞である読売新聞を使った米国の戦略であった。

正力松太郎と渡辺恒雄がCIA工作員として、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍を創立し、その経営資金がCIAから出ている事実は、米国政府の心理戦争局の内部文書Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53に明記されている。
米軍が武器を持ち日本に駐留し、日本を支配下に置いているように、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍は、米軍の「兵器」として「作られた」。
 政治部の渡辺記者は大野番として出発したが、大野伴睦や児玉誉士夫に密着して子分役を務め、暴力団の東声会のクラブの運営委員に連なったり、ロッキード事件の前にワシントン特派員として、児玉の対米窓口を果たしたとも噂された。また、児玉が乗っ取った出版社の「弘文堂」では、若き日の中曽根と共同経営者に名を連ね、その時の株主仲間には児玉や中曽根の他に、大橋富重、萩原吉太郎、永田雅一、久保満沙雄のような、戦後の疑獄史の裏面に出没した政商たちが、読売の現役記者だった渡辺と共に名を連ねている。
★船橋洋一
朝日新聞が親中、新ロ論陣と左右に別れていた時代には、世論調査の信頼度も一定の範囲で存在したが、朝日新聞が小泉純一郎政権以降、船橋洋一主筆を筆頭に急速に親米化一色になった時点で、マスメディアが持ち続けるべきジャーナリズム精神は失われた。
人民日報提携紙、同じ住所に東亜日報を置く朝日新聞は、CIA資料からCIAエージェントと明らかにされてから、記事内容も支離滅裂である。過去の高飛車な断定報道を無かったかの様にスルーし、追いつめられると言い訳ばかりで決して謝罪もしない低レベルのゴシップ新聞社である。
★東久邇稔彦 (1887年12月3日 - 1990年1月20日)

旧皇族、陸軍軍人、陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。

第二次世界大戦後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱え国内の混乱を収めようとしたが、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。

★辻政信 (1902年10月11日 - 1961年に行方不明)

元陸軍大佐。政治家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)。

旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。著書を次々出版しベストセラー作家としての知名度を確立した。旧軍の参謀だったという要素がプラスに働き、追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党・鳩山一郎派、石橋派に所属。石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で自民党を除名されて衆議院を辞職し、参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選した。

2005年(平成17年)に公開された、米中央情報局(CIA)極秘文書には『辻政信ファイル』が存在する。しかし、経験不足で諜報活動は失敗に終わった」としているほか、日本の再軍備をもくろんでいたとしてアメリカ側が警戒していたことが記されている。

★五島慶太 (1882年4月18日 - 1959年8月14日)

1944年(昭和19年)、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任し、名古屋駅の交通緩和や船員の待遇改善などに貢献する。終戦後の1947年(昭和22年)、東條内閣の閣僚だったという事で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって公職追放者指定を受けた。公職追放後も影のご意見番として事実上企業活動に参加。大東急分割騒動の際も、むしろ自ら企業分割を推奨し大東急再編成の推進役を果たした。東急電鉄創業者。

★秋山浩
(旧731部隊情報提供者)

★有末精三 (1895年5月22日 - 1992年2月14日)

元陸軍中将 駐留米軍顧問 日本郷友連盟会長
CIAの記録によると有末とその部下は在日中国共産党員に情報を売っていたとされている。戦時中から、アメリカと中国共産党の二重スパイか。

★麻生達男 詳細不明

★福見秀雄 (1914年4月20日 - 1998年12月19日)

昭和時代後期の微生物学者。(旧731部隊関係者)
昭和22年創設の国立予防衛生研究所入所、細菌部長をへて、53年所長。55年長崎大学長。
藤野恒三郎と腸炎ビブリオを発見。インフルエンザワクチンの開発、集団接種などに力をそそいだ。死去。84歳。愛媛県出身。東京帝大卒。

★服部卓四郎 (1901年1月2日 - 1960年4月30日)

戦時中からアメリカのスパイであることが疑われる。
元陸軍大佐。
1942年(昭和17年)8月に始まったガダルカナル島の戦いにおいては、現地を視察した際、「補給路が確立されつつあり、この点について問題なし」と実情とかけ離れた報告をした。結果、陸軍は3万人以上の部隊を投入したが、撤退できたのは僅かに1万人足らずだった。

終戦後は、チャールズ・ウィロビーの元で日本の再軍備にかかわる。当初は、創設される警察予備隊の幕僚長に任じられる予定であったが、公職追放された人物を入隊させることはできないと民政局及び吉田茂首相(吉田に進言したのは辰巳栄一元中将を中心としたグループ)が反対したため、服部の幕僚長就任は実現しなかった。

1952年(昭和27年)10月31日付のCIA文書によると、服部らは、自由党の吉田茂首相が公職から追放された者や国粋主義者らに敵対的な姿勢を取っているとして、 同首相を暗殺し、民主党の鳩山一郎を首相に据える計画を立てた。辻政信が「今はクーデターを起こす時ではない」と服部らを説得し、服部らはクーデターは思いとどまったものの、政府高官の暗殺を検討したという。
★今村均
元陸軍大将。戦場で将兵の守るべき教訓を列挙した訓示、いわゆる「戦陣訓」を作成 した。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」。
インドネシアでは、民族独立を目指すスカルノとの友情を貫き、ラバウルでは陸軍7万人の兵を統率して、米軍の攻撃をもの
ともせずに、玉砕も飢えもさせずに敗戦まで持ちこたえ、無事に帰国させた。
オーストラリア軍の禁錮10年の判決により、1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に送られた。だが今村は「(未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると)自分だけ東京にいることはできない」として、1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。
積極的にスパイ活動に関与したとは思えない。
 戦犯として捕まった部下を救うために、自ら最高責任者として収容所に乗り込み、一人でも多くの部下を救うべく奮闘した。帰国後は、部下や、遺族の生活のために奔走した。その姿はマッカーサーをも感動させたのである。政治家や官僚、企業経営者の責任が問われる今、責任をとるとはどういうことか、今村将軍の生涯を振り返えれば答えが出るであろう。
★石井四郎 (1892年6月25日 - 1959年10月9日)

(旧731部隊長)
元陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。階級は陸軍軍医中将功三級医学博士。731部隊の創設者として防疫活動に従事した。多くの人体実験を行い細菌兵器を開発したとされる。

★賀屋興宣 (1889年1月30日 - 1977年4月28日)

コードネーム「POSONNET-1」

広島県広島市出身の大蔵官僚~政治家。
大蔵(現財務省)官僚は、アメリカCIAのスパイである。

戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となり、約10年間巣鴨プリズンに服役。

1955年(昭和30年)9月17日に鈴木貞一、橋本欣五郎らと共に仮釈放。1958年(昭和33年)赦免。同年第28回衆議院議員総選挙に旧東京3区から立候補し当選(以後5回連続当選)。岸信介首相の経済顧問や外交調査会長として安保改定に取り組んだほか、池田内閣の法務大臣、自民党政調会長などを歴任し、自由民主党右派・タカ派の政治家として有名だった。

1972年(昭和47年)、政界引退。「自由日本を守る会」を組織、中華民国擁護など独自の政治活動を続けた。

アメリカ共和党、中央情報局(CIA)や中華民国の蒋介石政権と強固な人脈を持ち、日本遺族会初代会長となる等、国際反共勢力、自民党、右翼のトライアングルを結ぶフィクサーとして国内外の右翼人脈を築いた。2007年(平成19年)に開示されたアメリカ国立公文書記録管理局所蔵の文書に、CIAの協力者(日本反共化のためのスパイ)だったことが記されている。

★小宮義孝 (1900年 2月18日埼玉県にて出生。

元東京大学医学部助教授国崎定洞(ドイツ共産党日本人部創設者で、旧ソ連に亡命後スターリン粛清の犠牲になったコミュニスト)の親友であり、東大医学部助手時代に治安維持法違反で検挙され、上海に渡った経歴を持つ。七三一部隊の石井四郎・秋山浩・福見秀雄と同様に細菌戦関与を疑われたが、もともと治安維持法で検挙され東大医学部助手から上海へ左遷された左翼。この小宮義孝を唯一の例外として、今回機密解除されたCIA個人ファイルには、左翼関係者は公開されていない。

★久原房之助 (1869年6月4日 - 1965年)

明らかにスパイ。
衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。日立製作所創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。義兄の鮎川義介と共に「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。

明治の政商として活躍、藤田組を創業した藤田伝三郎は父・庄三郎の実弟にあたる。なお、庄三郎は伝三郎が「藤田伝三郎商会」(後の藤田組、現在のDOWAホールディングス)設立の際には共同経営者として名前を連ねている。

2回結婚しており(最初の妻が鮎川義介の妹・キヨ)、妾腹の子を含めると3男10女計13人の子に恵まれた。長女は元衆議院議長・石井光次郎に、三女は大隈重信の孫・信幸に、四女は元東京急行電鉄社長・五島昇に、八女は元スタンレー電気社長・北野隆興に嫁ぎ、九女と十女は米国人と結婚している。孫にシャンソン歌手の石井好子と元東急建設社長の五島哲、スタンレー電気社長の北野隆典がおり、曾孫に詩人・フランス文学者の朝吹亮二が、玄孫に小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子がいる。

★前田稔 (1945年3月1日 - 1945年10月1日)

元海軍中将。航空艦隊司令長官。
「親ソ」でコミュニストの可能性。海軍内で暗躍したさほどの形跡はない。

★野村吉三郎 (1877年12月16日 - 1964年5月8日)

日米開戦時の駐米大使。
昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県和歌山市出身。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。

終戦後の1946年(昭和21年)8月に、野村は公職追放となるが、ACJ(アメリカ対日協議会)の面々は積極的に野村に近づき、定期的に(違法ではあるが)食料や煙草を送り、経済的に苦しい野村の便宜を図った。メンバーの一人であるウィリアム・リチャーズ・キャッスルは、野村を「日本を正しい道筋で、再び重要な国家となるように再建するのに役立つ人物の一人だ」と評した。

1953年(昭和28年)3月24日、同郷の松下幸之助に請われ、松下電器産業の資本傘下となった日本ビクターの社長に就任。空襲による会社や工場施設の焼失、戦後の労働争議などでの危機的経営を創生期の親会社で疎遠となっていたアメリカRCAと技術支援契約を結び再建の道筋をつける。

追放解除に伴い、吉田茂の要請で再軍備問題の調査にあたり、海上自衛隊の創設に深く関わる。これが縁で1954年(昭和29年)の第3回参議院議員補欠選挙(和歌山選挙区)に出馬・当選し、参議院議員となり、続く第5回参議院議員通常選挙(和歌山選挙区)にも当選した。
自由民主党に参加して、防衛政策を担当した他は、外交調査会会長を務め、松野鶴平の参議院議長就任に伴い党参議院議員会長に就任した。鳩山内閣・岸内閣で防衛庁長官への起用が取り沙汰されたが、日本国憲法における文民統制の観点から見送りになった。その後の人事では旧軍・自衛隊の士官経験者の防衛庁長官も誕生しているが、当時としてはまだ時期尚早で、なによりも野村が旧海軍軍人として大物過ぎたこと、そして日米開戦時の駐米大使としてあまりにも有名でありすぎたことが逆にたたる結果となった。

★大川周明 (1886年12月6日 - 1957年12月24日)

積極的にスパイ活動に関与したとは思えないが、CIAは、満鉄の情報を収集していたのではないだろうか。

日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。晩年、コーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。

★小野寺信 (1897年9月19日 - 1987年8月17日)

元陸軍少将。
スウェーデン公使館付武官に発令され、翌年1月、ストックホルムに着任し太平洋戦争を迎えた。1943年(昭和18年)8月、陸軍少将に進む。
この頃からSD国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクと共に和平工作に従事する。敗戦後の1946年(昭和21年)3月に日本に帰国復員したが、同年7月まで4ヶ月間戦争犯罪人として巣鴨プリズンに拘留された。

★重光葵 (1887年7月29日 - 1957年1月26日)

第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家。
1943年(昭和18年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。

公職追放解除後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。鳩山一郎派と合同して日本民主党を結党させる。1955年(昭和30年)の保守合同で自由民主党結党に参加。

★下村定 (1887年9月23日 - 1968年3月25日)

元陸軍大将。政治家。
終戦時下村は満州におり、下村の帰国まで東久邇陸軍大将宮が陸軍大臣を兼務している。第5回参議院議員通常選挙で全国区から出馬、当選し参議院議員を1期務めた。

★和知鷹二 (1893年2月1日 - 1978年10月30日)

元陸軍中将。1946年(昭和21年)1月、戦犯容疑(橘丸事件)で逮捕され巣鴨拘置所に拘留。1948年(昭和23年)4月13日、重労働6年の判決を受け、1950年(昭和25年)8月に仮釈放された。
★和智恒蔵 (旧姓・大野、1900年7月24日 - 1990年2月2日)
元海軍大佐で、硫黄島では海軍警備隊司令を務めた。
1946年4月25日から9月まで巣鴨プリズンに拘禁された。戦争から生還したことに責任を感じて出家し、天台宗の僧侶になる。硫黄島協会を設立して、慰霊と遺骨収集に生涯を捧げた。
★土肥原賢二

★中曽根康弘
ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。
 この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。
 ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。
 与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。
 文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。
さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。
 文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。
 結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。
★池田勇人

★佐藤栄作
2007年に公開された日本占領中のマッカーサーの諜報活動を詳述しているCIA文書など5万点に上る機密解除文書には、岸信介の弟である佐藤栄作元総理大臣が米国に対し「共産主義と戦うためにアメリカからの財政援助を願い出ていた」ことが書かれている。
また、佐藤栄作大臣(岸政権下の大蔵大臣)が当時の米国駐日大使館S.S.カーペンター大使館一等書記官と東京グランドホテルで秘密裏に会談し、資金援助を要請したことがS.S.カーペンター大使館一等書記官作成の覚書の中に書かれている。
米国のエージェントであった岸信介総理大臣が日本国民の反対運動を弾圧して調印した1960年の「日米安保条約」および米国のエージェントの佐藤栄作総理大臣が国民の反対運動を弾圧して調印した1970年「日米安保条約」は、調印した二人の日本国総理大臣が米国に買収されていたエージェントであった事実が暴露された時点で法的根拠を失い無効となるのは当然である。

なぜなら外国に買収された一国の総理大臣が買収した外国との間で調印した条約は無効となるからである。
★小泉純一郎
★竹中平蔵
★飯島勲

小泉元首相の秘書官だった。

★麻生太郎
第二次世界大戦後、中国とロシアが共産主義国になったため、日本を共産主義への防波堤に使おうと米国政府は考えた。日本が共産主義にならないよう米国は日本を豊かな国に育て、また巨大な米軍とCIAを日本に置き、日本を暗黙の「監視下」 に置いた。
その任務を担ったのが、初代CIA日本支局長ポール・ブルームであった。
ブルームは東京の渋谷区神山町22番地に住居を持ち、その近所には2008年現在の麻生太郎元首相の生家があった。当時の総理大臣吉田茂は麻生の祖父であり、麻生の家で、CIA日本支局長ブルームと吉田首相は、日本の経済成長や米軍駐留の政策について深夜まで話し合った。
やがてブルームは麻生太郎を自宅に引き取り、自分の「後継者」として、CIA日本エージェント=工作員として育てる。
★佐野忠克

鳩山由起夫政権時の政務担当首相秘書官。
首相秘書官の内訳は、慣例的に政務担当1名、事務担当4名の計5名で構成され、それぞれ外務省、財務省、警察庁、経済産業省の各省庁から1名ずつ出向する形で就任する。財務省出身者が事務秘書官の中で筆頭格とされ、他の事務秘書官よりも年次が上の者が就けられる。

佐野忠克氏は、1969年(昭和44年)4月 通商産業省入省、 1993年(平成5年)8月 総理府 細川護熙内閣総理大臣秘書官(事務担当)につき、鳩山総理と接点ができている。

当初、鳩山総理は、小泉元首相の秘書官だった飯島勲氏のように、芳賀大輔氏を首相秘書官に起用する予定だったようだが、偽装献金事件で潰されてしまった。だから、旧知の佐野氏に白羽の矢が立った、ということだ。

平野博文官房長官は14日午後の記者会見で、鳩山由紀夫首相とともに訪米して米国に残っている佐野忠克首相秘書官が、スタインバーグ国務副長官と会談することを明らかにした。米国務省「ナンバー2」が日本の首相秘書官と会談するのは極めて異例。米軍普天間飛行場移設問題について、佐野氏は日本側の検討状況などについて説明するとみられる。(時事トッドコム  2010/04/14-17:23)≫

また、記事の主旨には賛成できないが、「現代ビジネス」に「徳田虎雄との会談を仕掛けた佐野忠克首相秘書官」と題し、田崎史郎が書いている。(参照)

≪ 鳩山が動きだしたのは4月28日、徳之島出身の元衆院議員・徳田虎雄との会談からだった。そもそも徳田と会談したことがまず疑問だ。 徳田虎雄が1980年代に衆院奄美群島選挙区(定数1)で保岡興治と「保徳戦争」と呼ばれるほど激しい選挙を戦い、選挙違反で逮捕者が続出したこと、徳洲会の病院経営、彼の政治活動などを多少知っていれば、接触することにもっと注意を払っただろう。

案の定、会談内容は、同席した衆院議員の二男・毅からマスコミに公表された。毅は自民党に所属している。毅がマスコミに、あるいは自民党にすべて話してしまうことは容易に想像できたはずだ。
徳田が会談を受けた時、「これはトラップ(罠)かもしれない」という懸念を抱かなかったのだろうか。
 
この会談の設定は政務担当の首相秘書官・佐野忠克を中心に進められた。・・・佐野は鳩山と徳田との会談を他の秘書官はもちろん官房副長官・松井孝治らともほとんど相談しなかった。時期もまずく、住民の反対集会が4月18日に徳之島で開かれた後では、地元を説得しようとしてもできるはずがない。≫

★勝栄二郎 (元財務省事務次官)

★松元 崇(財務省)
★清水 治(財務省)
★竹歳 誠(財務省)勝栄二郎と東大時代からの盟友
★太田 充(財務省)
★宇波弘貴(財務省)
★小宮義之(財務省)
★吉井浩氏(財務省)
★井藤英樹(財務省)
★宇波弘貴(財務省)
★大串博士 衆議院議員(財務省出身)
★東京地検特捜部
東京地検特捜部の歴代トップは、全員CIAに留学し、CIAの対日工作員としての徹底的教育を受け、日本に帰国する。この教育を受けた者でなければ、東京地検特捜部、そして日本の警察機構の中で、上層部に出世する事は出来ない。
時には、防衛省の守屋事務次官の事件のように、米国CIAから東京地検への直通ファックスによる「摘発指令」が来ることもある。
★マイケル・グリーン CSISの日本部長
★ジェラルド・カーチス(コロンビア大学教授)=CIA工作員。
その妻・深井翠の父は深井武夫
日本を経済植民地にするためにマスコミに暗躍。要注意人物。大学教授、自民民主議員はCIA工作員多い。小泉純一郎と同じく、日本属国化の手先である。郵政民営化、消費税=法人税減税、外資による日本企業買収法、TPPは、米国の命令によってなされた。
★深井武夫 米国による日本情報統治の父。時事通信社
昭和24年(1949年)に当時アメリカ占領軍のC I E の調査担当のハ-バ-ト・パッシング博士等の推薦で、アメリカ、ミシガン大学のサ-ベイ・リサ-チ・センタ-に招かれた。そこで知ったことは、世論調査とともに科学的な市場調査の重要性であった。帰国後そのことはいち早く時事通信社にもたらされた。すぐにこの事が話題になり、市場調査研究会が結成され、日本で初めて世論調査を導入する。(時事通信社と共同通信はCIAによって設立された。)
★稲盛和夫
「アブシャイア・イナモリ・リーダーシップアカデミー」をCSIS内に作った。稲森は、生前から松下幸之助と昵懇で政経塾の世話人となってきた。その稲森が典型的な「ジャパン・ハンドラー」であるCSISに、政経塾メンバーを送り込むという構図。
★江口克彦
江口は松下幸之助の側近中の側近。松下の意向を受けで、松下政経塾の司令塔であるPHP研究所の社長になっでコントロールしていた。その人物が最高位に就任している以上、「みんなの党」は松下政経塾政権の別働隊と分析できる。
★加藤紘一娘、加藤亜由子
★中曽根康弘の孫、中曽根康隆
★小泉進次郎
 右の女性は、カーチス教授の娘・ジェニー
小泉進次郎 だけでない。3人とも、ジェラルド・カーティス教授とのコネで国際関係(SIPA)に入学。
★浜田和幸
CSISで研究員をしていた、国民新党所属の参議院議員。
★渡辺恒三
CIA指令「小沢抹殺」実行の主役の一人である。原発利権とCIA工作によって寝返った。国のレベルでも地方のレベルでも、渡辺恒三一族は従米ネオコンエージェント活動を主導している。
★渡辺恒三の息子、渡辺恒雄
グリーンの教え子で、肩書きもCSIS(シー・エス・アイ・エス)の研究員である。
鳩山・小澤の政権時、息子の恒雄が、前原誠司や枝野幸男ら民主党内の反小沢グループを何かあるとすぐにそそのかして民主党分裂策動を開始する。「七奉行の会」とかを作って定期的に会っている。ここに、岡田克也までがすぐにひきづられて連れて行かれる。そうして「アメリカとしては、鳩山、小沢のあとはお前たちに日本の政治を任せようと考えている」とマイケル・グリーンが、渡部恒雄と出てきて盛んに扇動していた。
★渡辺恒三の甥っ子、佐藤雄平
福島県知事
★松下政経塾
★前原誠司
★長島昭久
SAIS(ジョンズホプキンズ大学高等国際問題研究大学院)ではプレジンスキー教授のゼミで仕込まれ、防衛省の政務官を経て野田の首相補佐官。マイケル・グリーンの使い走り。
★玄葉光一郎
★長浜博行
★樽床伸二
★創価学会
自民党にCIAの政治資金を流すと同時に、会館に名を借りてCIAの事務所・拠点を建設。
★池田大作
★統一教会
CIAが文鮮明(ムン・ソンミョン)に作らせた教団。公明党が出来てからは創価学会に代わって自民党に政治資金を流すと同時に、統一教会の資金で各国会議員に秘書を提供している。秘書と言ってもCIAの情報網であり議員の監視役である。
★文鮮明(ムン・ソンミョン)
★電通
★NTT
もともとCIAが作った通信網。
★時事通信社
CIAが作った通信社。
★共同通信社
CIAが作った通信社。
★三宝会
竹下登元首相の指示で96年に設立された。新開、テレビ、週刊誌、政治家、官僚、評論家が集まって、自民党にとっで最大の脅威だった小沢一郎をメディアの力で抹殺する作戦が展開された。最高顧問は竹下登、世話人が高橋利行(読売新聞世論調査部長)、後藤謙次(共同通信 編集委員)、芹川洋一(日本経済新開政治部次長)、佐田正樹(朝日新開電子電波メディア局局長付)、湯浅正巳(選択出版)(肩書きはすべて当時)。いま現在は、共同通信、ホリプロ、朝日、毎日、読売、日経、TBS、日テレ、フジ、テレ朝、講談社、文春、プレジデント、選択、朝日出版社が会員だというから、狙われたら抹殺される。中曽根内閣によるバブル経済時代にCIAと結んで日本の核装備のために、原発の建設を財界とともに推進して、現在の破局の基盤作りをしていた。それに協力したのがマスコミという構図。
★田中健五
「諸君!」初代編集長で文春タカ派路線の生みの親。文藝春秋の取材記者を経て、「諸君-!」から「文藝春秋」の編集長を経て、その後は社長にと出世していく。
大量の政府広報が記事のスタイルで、政府の機密費として文藝春秋に流れたことは、誌面を占めた政府提供記事で明白。
右翼の日本文化会議の機関誌が、内閣調査室の資金で文藝春秋から出て、保守的な言論活動を展開したわけである。

自民党とは、日本を隷属国家にすべくCIAに作られ、米政府 隷従DNAを埋め込まれた日本奴隷化装置
2014年10月24日(金) 19時17分35秒
テーマ:政治

これは G P I F についての項でも簡単に書いたことだが、非常に重要なので改めてもう一度書いておく。

自民党とは、日本という国を米国の奴隷国家にしておく為に C I A の工作資金 ( C I A が麻薬で稼いだ汚いお金 ) で作られ、米政府への隷属 D N A を埋め込まれてる 恥ずべき売国工作政党 である。
 ( 自民党が実は米国の手下 …と考えてこそ、対米政治に於ける日本の極端な弱腰の説明がつく。 )

つまり自民党 ( 旧自由民主党 ) とは、世界最大の謀略工作機関である米 C I A の手で、米国の 「 対日工作 」 の受け手 ( 相棒 ) として作られた、完全な 「 米国の手下 」 なのである。

米国の公記録だけから言っても、自民党は結党時の 1955年 ~ 1964 年に至る 10 年間もの間*、「 C I A の対日工作資金 ( 実は C I A が麻薬密売で稼いだ汚いお金 ) 」 を貰って米国の為に活動し続けて来た、正真正銘の 「 謀略工作政党 」 である。
 ( 注*;秘かになら、あの売国的な小泉改革時の宣伝工作資金の投下を含め、恐らく今でも尚 …だ。 )
 ( この時の郵政民営化のせいで、自由化された郵貯と簡保から 2014 年だけでも凡そ 30 兆円分が、一旦買ったら最後、日本円に戻すことの出来ない、ゴミも同然の米国債を買ったという名目でドブに捨てさせられてる …という副島隆彦氏の指摘がある。 )

C I A が10年間 ( かそれ以上に渡って ) 工作資金を注入し、云わば手塩にかけて自民党を育てたという事は、 C I A の思い通りに動く 「 米政府への隷従遺伝子 ( D N A ) 」 を、その間に自民党が深く埋め込まれた …ということを意味する。

世界で最も悪質な謀略工作機関である C I A が、単に思いやりで日本の自民党に厖大な結党・政治活動資金を恵んで呉れていた …等という事が有り得ないことぐらいは、多分誰でも分かるだろう。

が、同じく C I A に買収されて脅しを掛けられてるらしい日本のマスコミは、それが全く分かって無いかの如く、未だにこの日本政治最大のスキャンダルを、本気で追及しようとはしていない。

だからこそ自民党は、主権者である国民の為に …ではなく、常に米政府の為に、米国や背後の金融資本のゴリ押しに迎合しつつ隷属を続け、現在に至るまで国民には全く説明の付き難い 「 売国政治 」 を、恥じることなく行い続けて来たのである。

このような理由で自民党が、まさしく売国的謀略政党そのものである …ということに、今や日本国民の全体が気付かなければならない。

一寸考えてみれば、誰にでも分かる事だが、建前上は対等な独立国である筈の日本の首相への、米政府からの毎年の奇妙な命令書とも言える 「 年次改革要望書 」 が、未だに発せられ続けてる …という事や、完全に不平等な 「 日米地位協定 」 の改正が未だに殆ど進まない …という事や、米軍基地問題の数々に対して日本政府の交渉振りが常に及び腰でしか行われない …という事などの、一切の原因が正に其処に有るのである。 ( 多くの日本人が知らないままでいるが、日米地位協定に依れば 「 米軍は日本国内の何処にでも米軍基地を作ることが出来る 」 のである。 米軍が我物顔に振舞えるのは、正にこの 「 日米地位協定 」 のせいなのだ。 )

つまり、米国政府の都合にだけ合わせてしか物事を考えられず、米国に脅されれば直ぐに平身低頭して引き下がってしまう 「 日本政府や首脳の弱腰の本質 」 とは、 C I A に奴隷化遺伝子を埋め込まれて自尊心を失ってしまった、タカが 「 米国の手下 」 でしかない売国政党の自民党が、未だに政権の座に座り続けていられるからなのに過ぎないのである。

日本国民の嫌がってる事ばかりを、日本国民の意思をほぼ無視して、米国にだけおもねって強引に決め、無理矢理にでも実行してこの日本そのものを壊そうとしている、この危険極まりない 「 国民生活の破壊者 」 である安倍某とその売国政権とを、日本国民は次の選挙で絶対に許してはならない。


もう一度、繰り返して言う。
自民党とは、日本を隷属国家にすべく CIA に作られ、米政府 隷従 DNA を埋め込まれた日本奴隷化装置である。

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備考

参考までにウィキペディアにある 「 3 S 政策 」 の項目 ( https://ja.wikipedia.org/wiki/3S%E6%94%BF%E7%AD%96 ) から一部抜粋して重要箇所を引用紹介しておこう。

第二次世界大戦終結後において米 CIA のスパイであり協力者(エージェント)であった正力松太郎 ( コードネーム PODAM または POJACKPOT-1 ) 、読売新聞 ( コードネーム POBULK ) 、日本テレビ放送網 ( コードネーム PODALTON または KMCASHIER ) 、朝日新聞社の緒方竹虎 ( コードネーム POCAPON ) 等のリストが 2007 年に米国の情報公開制度で公開された。
 ( つまり読売新聞と日本テレビと朝日新聞がずっと米 CIA の手先であったという重大な事実が、この時ようやく、日本社会でも白日の下に晒された。 )

トルーマン ・ドクトリンによってアメリカは、それまでの孤立主義から 「 積極的な共産主義封じ込め政策 」 に転換し、伝統的な外交政策 ( 戦争 ) から 「 悪質な心理戦争を行う国 」 へと変わっていった。

戦略家のガブリエル・コルコはアメリカがベトナム戦争での失敗を契機に、大規模な戦闘という事態を避ける為に低強度紛争としてソフト・パワーを用いた情報戦を軍事戦略の中枢に置くようになる課程を紹介。
この戦略が最も成功した例が日本であり、各種の工作は日本支配のための 「 軍事戦略であり戦争であった 」 と述べた。

1、アメリカを絶対に支持し、アメリカに服従する政党と政権を他国に成立させ、そのための資金をアメリカが提供する。

2、この買収資金は、アメリカの税金ではなく、他国でアメリカが麻薬を密売した利益を提供し、アメリカが経済的負担を負わない方策を取る。

3、マスコミ操作を通じアメリカが常に「善」であると他国の市民を洗脳し、アメリカを批判する言論をマスコミに「登場」させない。アメリカ映画、音楽を大量に流し、アメリカが「すばらしい」国だと連日宣伝する。

4、学校教育においては、丸暗記中心の学校教育で思考能力を奪い、アメリカへの批判能力を奪う。

5、教師への絶対服従を学校教育で叩き込み、「強い者=アメリカへの絶対服従」を「子供の頃から身に付けさせる」。

6、逆らう言論人、ジャーナリストは、そのジャーナリストのセックス・スキャンダル等をマスコミに流し失脚させ、必要であれば軍の諜報組織を用い、事故に見せかけ殺害する。

7、他国の食料、エネルギー自給を破壊し、米国に依存しなければ食料、エネルギーが入手出来ないようにシステム化し「米国に逆らえないシステム」を作る。

 ( 上は、ガブリエル・コルコ 『 第三世界との対決 : アメリカ対外戦略の論理と行動 』 原タイトル『Confronting the third world』 筑摩書房 1992年 からの引用である。 )


こうした由々しき事実が白日の下に曝されても、日本のテレビ各局や主要新聞がそれには全く騒がない理由が、おのずと分かるだろう。 ( 日本社会とは、映画 「 マトリックス 」 の如く、ほぼ完全に 「 愚民化された社会 」 なのである。 )


20. 2017年11月13日 02:19:12 : FB1MFNovCk : SjLYP_tIXIE[7]
▲△▽▼五人でもデモって偉いなあ。
安部政権すり寄り放送局になってから私もNHKは見ていないし、受信料も払ってません。権力に配慮し、政権のマイナス面を批判しないテレビ局は最低だと思うからです。
NHKには優秀な番組がある事もわかってますが、権力の問題点を批判しないのは、国民の知る権利をないがしろにして、権力にすり寄りプロパガンダを行ってるも同然。多くの人が見るテレビ局としての社会的役割を果たしていないと判断しました。
現場の多くの社員の方々は真面目に頑張っていると思いますが、上層部に民主主義の基本やマスコミの役割の大切さなどに対しての自覚が無いんでしょう。政権側と会食などしないのが民主主義国家の常識。
安部政権になってからは日本の民主主義が後退している。
NHKの政治分野の報道に真っ当な客観的姿勢が戻ってきたら、またNHKを見ようと思います。プロパガンダ放送局は見る価値がありません。

21. 2017年11月13日 05:25:07 : cc1ytMAeRE : wQs6X0xSI9Y[11]
▲△▽▼安倍自公とそれを支持支援する売国在日カルトは日本の敵
許すまじ
18. 2017年11月13日 05:21:30 : cc1ytMAeRE : wQs6X0xSI9Y[10]

▲△▽▼
在日カルト安倍官邸がネット・プロパガンダ工作請負民間会社に官房機密費投入して雇った工作員が、小沢が米国政府や米軍サイドお呼び国内野党勢力の狭間に立ち
作りだしたPKO部隊派遣法は、とにかく下記のような米国やイスラエルなどが
世界中で繰り広げる自国ご都合主義(イスラエルは領土拡大と資源略奪、ISIS
を支援したシリア軍事侵略戦争で実証済み、米国は「影の政府」の借金帳消しや
財政資金略奪目的で911自作自演テロや対イラク軍自攻撃、日本への311津波
地震原発人工災害テロで実証済み)の他国政権転覆乗っ取りテロや軍事侵略戦争
に、日本が追随し第二次世界大戦時日本自体が経験したような、国民が大勢命を落し
一般市民が犠牲になる悲惨な戦争を二度と繰り返さないために、「国連決議」を
尊重した苦肉の策であった事実を隠蔽或いは無視し、ナンセンスな批判を展開して
いるが、米軍はロシアにISISを使った軍事侵略戦争を妨害されても、全く懲りずに
「時間稼ぎ」と「約束破棄」と「言い訳嘘八百」の在日カルトと同様の詐欺行為を繰り返し、中東での一般市民殺戮軍事侵略を継続している。
在日カルト安倍と自公不正選挙政権は国会で日本国憲法違反の「戦争法案」を
強行採決し、こうした米国やイスラエルが行っている自国ご都合主義の軍事侵略
戦争に日本と自衛隊を参加させるという、まさしく日本と日本人に敵対する暴政
を押し通しているのが実態なのである。

>米軍主導の有志連合は、
>シリア政府の同意と調整連絡や
>国連安保理の決議なしに
>シリアで活動している
シリア、デリゾール県に米主導の連合軍が空爆 民間人が死亡
© AFP 2017/ Stringer
中東
2017年11月12日 21:03(アップデート 2017年11月12日 20:36) 短縮 URL
0 21907
米軍主導の有志連合がシリア東部デリゾールのイラクとの国境沿いの村に空爆を行い、10人の民間人が死亡した。国営シリア・アラブ通信(SANA)が12日、報じた。
スプートニク日本
SANAによると、有志連合はドゥエイジ村の住宅地テル・アル・シャエルにミサイルを発射。ミサイル1発が救急車に直撃し、車内にいた人は全員死亡した。
米軍主導の有志連合は、シリア政府の同意と調整連絡や国連安保理の決議なしにシリアで活動している。

23. 2017年11月13日 10:22:23 : ABPExKQ6Vk : WkKEBT_l450[431]
▲△▽▼命をかけて真実を報道する報道人はいないのか
かつて戦時中朝日新聞は戦争礼賛、国家礼賛報道をして国民を戦地に送り込む手助けをしていた。
戦後そのことについて黙っていたが、口をあけて反省の弁を言うかと思いきや「当時、私達社員に生活があった」との弁。
空いた口がふさがらない。 絶句!
今の犬あっちいけーもその再来にしかすぎない。
報道に携わるということの意味が全く理解されていない。
何年か前にNHK社内で便所の取っ手に首を釣っていた事件があった、また、社屋から身投げしたということも伝えられている。
そんなことで怯えるものは報道人といえるだろうか。
聴取料の取り立ての上に成り立っているものたちの生き様をその名前をじっくりながめていたい。だれの金で飯を食っているのか(怒)
NHK職員を見る目を子々孫々まで語り草にしていきたい。

24. 2017年11月13日 11:58:16 : xksYDK3Log : DWzXumgWS1s[1]
▲△▽▼韓国では、以前、公営放送を含む三つの放送局が
大統領と癒着して報道規制する上層部に抗議するストをして、
社長を辞任させました。  
だから、日本のようにデモを隠さずに生中継で詳細を伝え、
常に国民の立場に立った報道をしますし、
大統領や大企業の不正には事実を報道して敢然と立ち向かいます。
新大統領やソウル市長は、竹中が勧めた非正規雇用の弊害により
事故が起きているので、非正規~正規雇用に変えています。
  
日本は有能な総理大臣や知事をマスコミを使って潰すとんでもない国。 
NHKの現場の皆さんも韓国を見習って立ち上がって下さい!!
国民が味方して支援します。


25. 2017年11月13日 12:48:01 : xksYDK3Log : DWzXumgWS1s[2]
▲△▽▼>>23
あなたがマスコミ関係者で、家族を人質にされたり、脅されても事実を伝え続けますか?
日本にも、事実を報道しようとした人々はいますよ。
でも、自殺に見せかけて殺されるか、冤罪で抹殺されています。
911の真実を報道しようしたNHK解説員は自殺に見せかけて殺され、
原発報道を真摯に伝えたNHKアナウンサーは痴漢で逮捕されました。
テレ朝でも原発報道に取り組んでいたディレクターは自殺に見せかけて殺されました。
311直後から現地に入って福島原発事故の真実を伝え続けた上杉隆さんは
「デマ野郎」と罵られました。 
「酒は呑むな!!電車に乗るな!!」と助言されたそうです。 
殺されるか冤罪で逮捕された時のために、取材資料をあちこちに置いて守ったとか。  
                                             日本にも、水面下で命懸けで悪人たちと戦っている方々がいるのです。 
韓国のように世論を味方にすれば悪人たちを簡単に倒すことができるのに、 
日本国民は騙され易いので、まだそこまでは成熟していません。
                

26. ひでしゃん[1793] gtCCxYK1guGC8Q 2017年11月13日 17:32:26 : Rqj9qXkhqs : LHeqctfyb6E[62]
▲△▽▼NHKに対しては受信料を無視する
本多勝一に賛同し受信料支払拒否
12月に最高裁判決が出るが現状の裁判官は田中耕太郎のような連中だからどうなるか
理由
NHKは国民の知る権利 を冒涜している
NHKの情報に価値があると考えるモノだけが契約すれば済む話
システム設計は簡単で安価に構築できる
契約者だけがカード等の交付を受け受信機器にセットすることで電波受信が出来る
出鱈目誤魔化し目晦ましのNHKの電波には一切依存しない
自らの判断で情報を選択する国民が増えれば売国傀儡の安倍晋三自公政権など粉砕だ

27. 2017年11月13日 18:57:13 : ygxevxYaOc : bBQpFuxC_Fw[164]
▲△▽▼祝、NHKから国民を守る党首葛飾市議当選!
今後の更なる活躍を期待
28. 2017年11月13日 19:55:56 : 1Ia1I9ildA : CtiZz4wFh0E[2]
▲△▽▼これらの災いはアメリカの反日ユダヤと反日アングロサクソンの影響。
アメリカは朝鮮人をスパイに使っている
アメリカは日本から出て行け!

29. 2017年11月13日 23:10:08 : xksYDK3Log : DWzXumgWS1s[6]
▲△▽▼>>28
朝鮮人と決めつけないで下さい!!
読売グループはCIAのスパイです。
日本人のスパイが大勢いて、
日本を守ろうとする人たちを次々に潰すのです。
旧日本軍が北朝鮮を作り、高句麗を追われて日本に逃れた朝鮮人が
今の中国の元高句麗の土地を含めた帝国を作ろうとした野望は失敗しました。
その日本にいる朝鮮人と今の韓国人とは違います。
ふるさとを奪われた日本にいる朝鮮人にしてみれば韓国が憎いでしょうが、
日本人を洗脳しないで欲しい。

30. 2017年11月14日 01:03:04 : vRtFVQWVNw : 5uuJCtWOtKM[24]
▲△▽▼日本のマスコミが垂れ流す捏造フェイク報道により
「安倍自公圧勝・不正選挙」のを本当のことだと思い込まされている
日本の有権者の方達へ
下記のとおりマスコミが流す「当選者速報」は特定の団体が予め用意した
「選挙結果データ」をそのまま「当確速報」として放送しているのです
トランプ大統領は米国の選挙システム、それも大統領選での不正選挙システム
を米国有権者に身を持って伝えてくれたわけです
米国三大ネットワークはジョージ・ソロスが資金を投入した「不正選挙システム」
でヒラリーを大統領の座に付けるシナリオどおり捏造フェイク報道を展開
トランプの米日外交を嘲笑している自称コメディアンやテレビキャスターは
こうした「不正選挙」でヒラリーを勝たせようと画策した陣営の手先として
動いているのです
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51996114.html

11月3日
テネシー州のローカルTV局が大統領選の結果をうっかり映してしまいました!
笑っちゃいますねえ。。。。テネシー州のNBC系のローカルTV局が大統領選の結果を表す画面をうっかり映してしまいました。テレビ局の保守系のスタッフがわざとやったのか、本当に手違いだったのかはわかりませんが。。。この結果は選挙前に既に用意されており、主要メディアが選挙後に一斉に映し出すページでした。
このように支配層エリートは誰を大統領にするかを決めており、票数を操作して必ず彼等が選んだ候補者が勝てるようにしているのです。
これまでの大統領選も同じやり口で彼等の選んだ大統領を勝利させたのは間違いないでしょう。
きっと、アメリカの有権者の多くがそれとも知らずにまじめに投票するのでしょうねえ。。。
http://beforeitsnews.com/survival/2016/11/the-fix-is-in-nbc-affiliate-accidentally-posts-election-results-a-week-early-hillary-wins-presidency-42-to-trumps-40-2643268.html
(概要)
11月2日付け

大統領選の結果は既に決まっています。NBC系のテレビ局がうっかりその結果(ヒラリーが42%、トランプ氏が40%を獲得し、ヒラリーが勝利)を映してしまいました!

NBC系のWRCBテレビ局(テネシー州南部をカバーする地方テレビ局)がうっかり大統領選の結果を映してしまいました。このテレビ局が画面に映したページは、選挙後に主要メディアが映す選挙結果(大統領と議員)と全く同じものでした。
以下の通り、ウェブサイトのThe Wayback Machineがその画面に映し出されたページを見せてくれています。。
そこには今回の大統領選の結果が示されており、ヒラリーが勝利したようになっています。
ジム・ストーン氏によると、この画面のページは、NBS、CBS、ABC、FOXなどの主要メディアが活用している、WorldNow.comのコンテンツ管理プラットフォームのニュース及び選挙結果用の非公開コンテンツです。
テレビ局がミスした後、元のページはリセットされています。
↓ こちらがWRCBがうっかり映してしまった選挙結果のページです。
(Click here for full size image)
election-early-results2
WorldNow.comのFTPサーバーにある選挙結果は、ニュースのコンテンツをパワーアップするためにNBC系のWRCBや主要メディアが活用しています。
ジム・ストーン氏がWorldNow.comのサイト内で発見したもう1つのページには、州ごとの選挙結果が示されています。(詳細はジム・ストーン氏のサイトで閲覧できます。)
それによると、例えば、テキサス州ではヒラリーが42%対40%で勝利、フロリダ州では44%対40%でヒラリーが勝利、ペンシルベニア州では44%対40%でヒラリーが勝利したということになっています。これからわかることは。。。ヒラリーはこれらの州でトランプ氏の票を盗もうとしていたのです。

このように、すでに大統領選の結果が示されたページが存在するということは、選挙結果は事前に決まっており不正選挙が行われることを暗示しています。つまり、我々有権者が投じた票は数に入らないということです。大統領選の勝者は投票結果を決めることができる連中によって既に選ばれているのです。

31. 2017年11月14日 04:04:50 : AquForGrSU : g27G7Nlpq5s[18]
▲△▽▼今回の大統領選の日、アメリカのメディア3社とカナダのメディア2社の速報を見比べていました。フロリダとペンシルベニアの結果をカナダが報道した後、1時間近く経ってからアメリカのメディアが速報を出しました。(Foxも含む)
30番さんの情報に納得です。
32. 2017年11月14日 12:45:42 : hyEQL9xgYu : k5UBbXQ5ICI[337]
▲△▽▼世の中には、生活のために働く者と、使命感で働く者とがいる。
われわれは、使命感で働いている者に支えられている。
いつも、感謝しています。

天皇 三菱財閥の人身売買 からゆきさん

2019-08-09 10:37:30

テーマ:ブログ公式ジャンル記事ランキング:アラカン22位日本郵船(三菱財閥と天皇が経営してた)は日本の若い処女の娘たちを、海外へ売春婦として売り飛ばしたりもしていた。天皇の莫大な財産は、売春斡旋業で得たもの。犠牲になった日本人女性は数十万人にも上る。とことん、腐っている。
https://t.co/jZd6nPddM3#WWG1WGA #DarkToLight #Patriots #QAnon
実業家岩崎彌太郎と啓蒙思想家福沢諭吉の一目を置き合う関係がありました。慶応義塾や東大から多くの人材が三菱には採用されました。 彌太郎は豪語しました。「番頭や手代を学識者にすることは出来ないが、学識者を番頭や手代にすることは出来る」

三菱グループのHP 「福沢諭吉と弥太郎」リンクから引用します。
<引用開始>大阪にある中津藩の蔵屋敷で福沢諭吉が生まれたのは天保5年。土佐の田舎で彌太郎が生まれた翌日だった。福沢 は蘭学を緒方洪庵(こうあん)に学び、ついで英語を勉強した。幕府の欧米使節に随行すること三度、著述活動を通じて西洋の制度・理念の紹介に努めた。
慶応3(1867)年の10月、長崎商会の主任だった彌太郎は長崎から船で京都に向かった。21日の日記に記している。「晴、早朝下関を発つ。…壇ノ浦では歴史に思いを馳せる。船室に入って、西洋事情二冊を読了する。…夜、広島の御手洗港に着く。…風雨激しくなる」。福沢の著書『西洋事情』は当時のベストセラー。彌太郎、33歳。福沢への一方的出会いだった。
福沢は慶応4年、三田に慶応義塾を開設し教鞭をとる。その翌々年、彌太郎は大阪で海運業を立ち上げた。明治6年には三菱を名乗り、翌7年東京に進出した。
当時の最大手は日本国郵便汽船会社。態度大きくいかにも乗せてやるという風情。これに対し、新興の三菱は、店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら笑顔で応対する。武士の意識が抜けず笑顔の出来ない者には、彌太郎は小判の絵を描いた扇子を渡し「お客を小判と思え」と指導したという。これを聞き、自ら両社の現場を視察した福沢は、「岩崎は商売の本質を知っている…」と塾生に語ったと言われる。
実物が三菱東京UFJ銀行の本店に保管されている。
初期三菱には当然のことながら土佐出身者が多かった。石川七財(しちざい)、川田小一郎らに代表される幕末・維新の激動の中を生き抜いた仲間だ。ところがある時期から、土佐とは直接関係のない学識者が増えて行く。彼らは三菱の経営の近代化に大きな役割を果たす。
その背景には実業家岩崎彌太郎と啓蒙思想家福沢諭吉の一目を置き合う関係があった。慶応義塾や東大から多くの人材が採用された。彌太郎は豪語した。「番頭や手代を学識者にすることは出来ないが、学識者を番頭や手代にすることは出来る」
【福沢門下生の活躍】
明治8年、彌太郎の頼みに応え福沢が推薦して、荘田平五郎が入社した。翻訳係、すなわち西洋知識の導入担当である。まず、三菱の会社規則が作られた。冒頭で「当商会は…まったく一家の事業にして…会社に関する一切の事…すべて社長の特裁を仰ぐべし」と、社長独裁を明快に謳った。三井や住友と決定的に違うところである。
後に三菱の第二代社長岩崎彌之輔に丸の内の土地を買い取るよう進言したのは荘田平五郎だった。その意味では日本屈指のオフィス街、「丸の内」の生みの親ともいえる。
三菱汽船会社規則会社の利益・損益ともに社長の一身に帰し、利益が大きいときは月給を上げることもあるが、損益が大きいときは月給を減らすこともある、などあくまで社長主体の会社体裁が規定されている。 (三菱史料館所蔵)
彌太郎自身は西洋の学問を学んでいない。にもかかわらず早々に複式簿記を採用し、原価償却の概念も取り入れている。福沢門下生の言うことを理解できた柔軟な頭脳は、おそらく長崎以来の外国商人との長い付き合いの中で培われたものであろう。
初期三菱には、荘田のほか、日本郵船の社長になった吉川泰二郎、後に日銀に転じて総裁にまでなった山本達雄、明治生命を創設した阿部泰蔵(たいぞう)ら、錚々たる福沢門下生がそろっていた。福沢は「実業論」の中で、経営者・岩崎彌太郎を、こう評価している。「岩崎社長は…広く学者社会に壮年輩を求めてこれを採用し、殊に慶応義塾の学生より之に応じたる者最も多かりしが…社員おのおのその技量を逞しくし、良く規律を守りて勉励怠らず、社務整然として…他諸会社に対して特色を呈した…」
彌太郎の長男久彌も、幼少時、明治8年から3年間、卒業したばかりの豊川良平のもとで慶応義塾に通った。
<引用終了>

天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社:日本郵船と福沢諭吉との関係を説明するブログリンクもあります。
<引用開始> 1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社、日本郵船が創立されました。明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていましたが、欧米への支払いに当てる資金が日本にはありませんでした。そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えました。
 賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行しました。(福沢諭吉全集 第15巻)
 1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で大々的に行われる事になりました。日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた事は言うまでもありません。天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人と言われております。
 大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員であれば10数年分の給与を手に入れていたのです。その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだわけです。その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられましたが、大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」されました。天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来ました。
 天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者なのです。
 天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁されました。そして売春を強制されました。初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。これが従軍慰安婦の原型とも言えるでしょう。
日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化しまた。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設することになりました。渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設されたしろものです。(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。
また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する事に至りました。
<引用終了>
福沢諭吉の孫と岩崎弥太郎の孫は婚姻関係になっています。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=280559

理解を深めるためには↓
~二次加害者とならないために~日本人慰安婦の話と、元日本軍慰安婦に関する正確な知識2015.1.14
http://kajipon.com/kt/peace-i.html

始まりが間違っている ・・・からゆきさん・・・ 

https://blog.goo.ne.jp/buteyko/e/617f25cac7360758d9b78efa3d333072ページの先頭へ

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19/08/13始まりが間違っている・・・からゆきさん・・・

19/08/12日本人慰安婦の話と、元日本軍慰安婦に関する正確な知識


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